大食漢の作家が名づけた、噂の「開高丼」を食べてみた

ふるさとの宿 こばせで食した「開高丼」


まず、カニミソの付き出しに、甘酢と大根おろしで調製されたセイコガニのみぞれ和え。そのあとに、茹でたズワイガニがまるまる1匹登場する。甲羅をかたどった大きな殻入れもテーブルに載せられ、ここからカニとの格闘がスタートする。

無言で一心不乱にカニの「解体」に取り組み、そろそろ第一次の闘いも終わりが近づくと、カニ甲羅焼きに続いて、今度は焼きガニが登場する。



焼きガニとの闘いは、茹でガニほど容易ではない。後者ほど、するりときれいに身が剥がれないからだ。困難ではあるが、それに見合うだけの美味体験もある。ようよう殻入れに積まれていくカニの残骸、すでにお腹の具合も良い調子になった頃、いよいよ真打、開高丼の登場だ。

ご飯は意外にも熱々だ

これまで写真で見る限りは、ちらし寿司のようなものを想定していたが、これが意外に温かい。カニの出汁に醤油を足したもので炊いたご飯は、かなりの熱々だ。米は福井産のコシヒカリ。そのご飯のうえにセイコガニのほぐした身と、内子と外子、それにカニミソがまぶされて載る。



内子というのは甲羅の内側にある卵巣で、「赤いダイヤ」とも呼ばれる。外子は腹の部分にある受精卵で、セイコガニの漁は11月6日から1月10日までの2カ月しかできないため、かなり貴重な食材なのだが、開高丼には惜しげもなくあしらわれている。約2合の開高丼で8杯のセイコガニが載るということだ。

さて、夢にまで見た開高丼は、やはり美味しい。コースであれだけカニを食べたのに、するりとお腹のなかへと消えていく。カニの身はもちろん、内子と外子とミソの味覚のハーモニーが熱々のご飯に溶け合うと、もう至福の体験だ。筆者はそれほどの甲殻類愛好者ではないが、それでもこのカニが演出する醍醐味は、実に豪奢だ。

大食漢の開高健に合わせて、盛りは過剰なくらいで、これを杓文字で茶碗によそって食べる。カニのだし汁がしみたご飯は何杯でもお代わりできるくらい、舌とのなじみがいい。気がつけば、見事に過食し、翌日からの炭水化物制限を密かに誓うことになるのである。

この至福の体験の「代償」は、カニのコース2名分に1.5合の開高丼が付いて3万4000円という値段。しかし、東京でこれと同じものを食べたら、この3倍はすると踏んだ。2合のオリジナルの開高丼なら、刺身が付いて2名で1万7000円だそうだ。どう考えても、この値段はけっして高くはないと、食べて実感している。

「こばせ」の館内は、開高健が訪れるたびに書いた色紙が何枚も飾られている。館主に宛てたお礼の手紙には、開高らしい諧謔精神があふれている。他にも、「砂」とひと言書かれた安部公房の色紙や、水上勉や小田実、宮本輝、椎名誠などの色紙も飾られており、さながら文学資料館の趣だ。



宿を出るとき、帳場のひとに、来年の予約はどうしたらよいかと、なにか抜け道があればと下心丸見えで尋ねたのだが、「電話のみで受け付けています」ときっぱり返される。開高丼とカニの記憶を反芻しながら、仕方なく、来年のスケジュールに、予約受付の日を書き込むのだった。

連載:名所旧蹟より「街歩き」旅
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文=麻桐 修

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