カンヌ、ベルリン、ヴェネチアに並んで世界四大映画祭とも言われるサン・セバスティアン国際映画祭において、2018年の最優秀新人監督賞を史上最年少で受賞した、奥山大史。受賞作「僕はイエス様が嫌い」で彼が描いたのは、カトリックの学校に通う二人の少年たちと、彼らを取り巻く小さな社会。
繊細で、時に痛ましく、生きることに対して切実な二人は、脚色や演出、映画というフォーマットさえ忘れるようなリアリティで描写され、国境を超えて共感しうる「信じる」という行為の美しさと残酷さを観る者につきつける。
映画という表現に向き合う若き監督の視線の先には何があるのか。作品に込めた思いから自身のルーツまで、語ってもらった。
神様のような絶対的存在がゆるいだとき、少し大人になるのかもしれない
──「僕はイエス様が嫌い」、すさまじい映画でした。まずは受賞に際して感じたこと、考えたことを教えてください。
映画祭の傾向を分析していたわけでもないので、受賞を聞いたときは、もちろん嬉しかったですが、「なぜ?」という感覚の方が大きかったです。正直、海外の人にここまで受け入れられた理由が自分ではわからなくて。
──どんなところが評価されたのでしょう。
真正面から宗教というテーマをとらえて、日本の町に生きる人々の小さな物語のなかで、一つの世界観を成立させたということでしょうか。日本はカトリックの国ではありません。そういう国が宗教をテーマにした映画を世界に発信するということ自体がかなり珍しいと思います。ある種リスキーなテーマだったと、審査員からコメントをいただくなかで気づきました。
──お祈りのシーンが頻繁に出てきますが、日本では一般的な慣習ではないですよね。海外にルーツを持つ宗教が日本で信じられている。そういう現象が観客を惹きつけたのかなと。
映画祭の期間中、現地に住む若いスペイン人たちが「映画観たよ」って声を掛けてくれたんですよ。「カトリックではない国のあなたが、カトリックのわたしたちが一度は考えることをなぜ描けたの?」って。「神さま、信じていたのにどうして?」と感じてしまう瞬間がキリスト教徒にはあるそうなんです。
キリスト教だけに限らなくても、何かを信じることって、誰しもありますよね。知らないあいだに神さまがいる。例えば、大好きなサッカー選手って絶対的な存在だけど、活躍できなくなってしまって悲しさを感じることもある。絶対的な存在が揺らいだときに、少し大人になれるのかもしれません。そういう普遍的なものが描けていたことが、受賞の理由なのかなと。
──そういう部分を描き切る、と決めていたのでしょうか。
結果的にそれが描けていた、ということになると思います。物語の中心には「ふたりの少年の友情」を据えていました。そこにキリスト教の要素を加えることで特別なものになるという意図はありましたが、神の沈黙と少年たちの美しさを対峙させよう、という意図が先行していたわけではなかったんです。
──少年の美しさと儚さが表裏一体になったシーンの数々が心に残っていますが、ご自身の幼少期の感覚や体験と強く結びついていますか?
実体験から着想した部分はかなりありますね。クリスチャンの学校に通っていたので、宗教観やそこでの感覚に関しては無意識に影響を受けていると思います。でも、実際に母校へ足を運んで何度か取材もしました。いまの小学生はどんな内容で、どのくらいの長さ喋っているのか、そういうことを取材したんですよ。
──会話のディテールが見事に描かれているのは、そういう裏付けがあったんですね。少年二人のシーンは特に印象的で、ある時期にしか出せない、一過性のきらめきがあるなと。
ゆらくんとかずまくん、あの二人はすごくいいですよね。70人くらいオーディションして、ゆらくんは絶対出てもらいたいなと。雰囲気があるし、カメラを向けても気にしないで、台詞をぼそぼそ言うんですよ。子どもっておおきな声で伝えようとすることが多いんですけど、ゆらくんはぼそぼそ言う。そこがリアルだなって。かずまくんはゆらくんの隣に並んだときにしっくりくる子。二人で並ぶと、すごくいいんですよね。