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当時のウラジオストク駅。それまでインド洋を数ヶ月かけて航路で行ったヨーロッパの旅が2週間に短縮された

最初のウラジオストク駅は1894年に完成しているが、ロシア帝国最後の皇帝となるニコライ2世は、皇太子時代の91年に世界旅行の最後の訪問地として日本に滞在した後、この地に立ち寄り、起工式に立ち会った。

ニコライ2世は、日本で大津事件にと呼ばれる、暗殺未遂に遭遇したこともあるが、日露戦争の開戦を決めるなど、日本とは数奇な縁がある。ロシア革命で殺されることになったが、今日、名誉回復され、彼の肖像画はウラジオストクでも至るところに飾られている。


与謝野晶子の碑には「巴里の君へ逢ひに行く」と刻まれている

現在の瀟洒な駅舎は、1912年に竣工された。この年、ウラジオストク航路に接続する敦賀港〜新橋間を走る欧亜国際連絡列車の運転が始まった。以降、日本からモスクワ、ヨーロッパへの鉄路がつながり、同じ年の5月、与謝野晶子が夫を追って、シベリア鉄道でパリを訪ねる際、この地に立ち寄っている。現在、極東連邦大学東洋学院の建物の前に彼女の記念碑が建てられている。


ロシアに柔道が伝わったのは100年以上前のことだ

ロシアにおける柔道発祥の地もウラジオストクにある。1911年に講道館に入門、帰国後、14年にこの地に柔道クラブを創設したサハリン出身のワシリー・オシェプコフが、「柔道の父」と呼ばれる嘉納治五郎と向き合う像は、金角湾大橋のたもとに立っている。

加害者としての記憶も残そうとしている

歴史には明暗がある。1930年代に入ると、満州事変が起こり、以後、ウラジオストクはソ連の防衛線の重要地点となり、軍事基地となった。1937年には、外国人は国外退去を命じられ、日本国総領事館の関係者を除く日本人は、全員帰国せざるを得なかった。


夏は海水浴場として知られるスポーツ湾に面したサッカースタジアム「ディナモ」も、日本人抑留者によって建設された

日本の敗戦後、ソ連は数万人もの日本人をシベリアに抑留させた。ウラジオストクにもふたつの収容所があり、ビル建設や道路の改修に従事させられている。

当時亡くなった日本人の慰霊碑が、現在ウラジオストク空港の近くに立っている。ロシアでは、日本に対する加害者としての記憶も残そうとしているところが、近隣アジアの国々の姿勢とは違っているようだ。


旧堀江商店などの建物にあるプレートは日本語とロシア語併記

そればかりか、市内の日本とのゆかりの場所のいくつかに、当時の歴史を記述したプレートが設置されている。いまから100年前にこの地でロシア人と日本人が共生していた記録がしっかり刻みつけられていることを知っておきたい。

連載 : ボーダーツーリストが見た北東アジアのリアル
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文=中村正人 写真=佐藤憲一

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