「日本では考えられない、突然の大出世」 美術館ディレクターのグローバル思考

キース・ヘリング美術館プログラム&マーケティングディレクター(筆者撮影)


しかし、順調にブランドを成長させていく一方で、周囲から高く評価されても、自分にはそのような能力はない、努力が足りない、評価されるに値しないと自己を過小評価してしまう感覚に陥った。女優のエマ・ワトソンも告白したことのある「インポスター症候群」のような症状だ。

「当時、目標を決めて努力や人生設計をする、ということをしてこなかったので、急に持ち上げてもらったことで頑張っている人達に対して罪悪感に似た不安な気持ちが大きくなっていました。でも変化する勇気がなかったので、いつかまた“ある日突然”が来るのを待つしかできませんでした」

そうしてクリエイティブ・ディレクターを務めてから4年(30歳)。ある日突然、悲しい知らせが届いた。

母親の末期がん宣告──。

「パトリシアに『母のそばにいたい』と辞任を願い出ると、『いつでも帰ってきていいからね』と言ってくれたので、また戻ってくるつもりで10年ぶりに帰国しました」

運命を感じるアーティストとの出会い

久しぶりの日本、待ち受けていたのは二度目のカルチャーショックだった。だが、今回は一度目と異なる自戒の念だった。

「日本語が通じない。電車の乗り方がわからない。日本の口座も持っていない。母親が亡くなった後、役所の書類手続き関係も全く出来なかった。日本社会の仕組みが全くわからない……日本人として失格だなと思いました。海外旅行もせずNYにしかいなかったので勘違いしていました。僕の世界は広いようで狭かった」

色々な国の人は知ってるけど、自分はまるで「全部見えるけど触れない透明ボックス」の中にいるようだ。そう気づき、日本人として向き合うために日本に残ることを決意する。

その思いをパトリシアに伝えると「中村さんに会ってみれば?」と勧められた。「中村さん」とは、中村キース・ヘリング美術館の中村和男館長だった。

「パトリシアはキース・ヘリングと友達だったこともあり、没後20周年記念コレクションをデザインしていて、僕もそれに関わっていました。その際に中村さんとやりとりをしていたので、遊びに行く感覚で美術館へ。そこで、中村さんから『グッズ売り場をいじってくれない?』と頼まれ、やってみるとそれが気に入られ、その流れで『美術館でディレクターとして働かない?』と誘ってもらい、今に至ります」


中村キース・ヘリング美術館内の物販エリア「ポップショップ」 写真提供:中村キース・ヘリング美術館

ファッションと同じようにアートも好きではあったが、専門的な勉強はしていなかった。だが、キースとパトリシアの関係、キース自身がNYのダウンタウンカルチャーでキャリアを築いたこと、そしてゲイであったことなど、キースとの繋がりは「運命的」だと感じた。

美術館のディレクションにおいては、ファッション・マーケティングを取り入れた。“今”のムードを表現できるSNS運用し、インフルエンサーの交友関係も多い優秀なスタッフも入れることで、若年層おけるキース・ヘリングの認知度を上げ、美術館の集客を増やしている。一方、作品管理などの取り扱いはファッション感覚を捨て、アートに誠意をもって向き合った。その結果、就任から4年、集客及びグッズ売上は60%増と右肩上がりで成長を続けている。

特異なキャリアとビジネス手腕を持つ彼は、いまや日本育ちと錯覚してしまうほど丁寧な振る舞いをし、一見「英語ができる戦略家気質の日本人」だ。

「本当のバイリンガルとは、言葉を切り替えるのでなく、文化も変えるべきだと思っています。マナーやアクション、マインド……だから英語を話している時と日本語を話している時の自分は全然違います(笑)」
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文=砂押貴久

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