セメント事業を興した
笠井順八
笠井順八は旧萩藩の下級藩士、有田甚平の三男として生まれた。7歳のときに同藩士、笠井英之進の養子となり長州藩藩校に入学。藩校席次2位の成績を収めるも、成績上位者3名による藩主へのご進講を「身分が低い」という理由で外されると、自主退学し独学で学問を続けた。後に江戸藩邸詰めで財務経理官として手腕を発揮し、帰藩後も要職を歴任。廃藩置県後は山口県官吏となり、財務畑で手腕を発揮した。
山口県におけるセメント製造の可能性を見出すと、士族授産金を元手に士族37名の出資を募り、同時に七分利付金禄公債抵当として差し出した。「発行された七分利付金録公債を額面50円を1株として、資本金8万8000円を集めて株式会社を発足させたのです。これが笠井の第一の創造的対応です。そして、セメント製造業というのはこれまで日本に存在しなかったベンチャー事業、イノベーションだったのです」と米倉。それが現在も続く、小野田セメントの創業だったのである。
三井に登用され頭角を現す
三野村利左衛門
「呉服商と両替商を営む三井の創業者、三井高利は京都と江戸で莫大な利益を上げ事業を拡大しました。高利の死後に継承した高平は、高利が残した遺産を分配せず、三井大元方と称する持ち株会社を組織して、一族で相続管理しました」(米倉)。三井大元方は11家族で構成され、呉服商や両替商を共同管理し年に2回、持ち分に応じて配当した。これもイノベーションの一つだ。そうして江戸期の最も強力な商家として存在した。そんな一族経営の中に外部から登用されたのが三野村利左衛門だ。
三野村は幕末から維新勢力へ財政支援を行い、新政府が京都から東京(江戸)へ移ると、新政府発行の太政官札の東京での流通に対して建議を行ない、三井がそれを引き受けた。政府の信頼を得た三野村は、三井による銀行の設立を目指した。そこで三井の財政を圧迫している、200年以上も続く祖業の呉服商を、一族の抵抗に遭いながらも分家させた三越家に分割。日本初の民間銀行である三井銀行を設立したのである。
三井物産の設立に尽力
益田孝
明治初期の政権運営は、財政収入も関税収入も安定せず、資本蓄積がないままに列強と対峙しなければならない厳しい状況だった。しかし三井の三野村は政府の苦境を見ながら、金融と通商に新たな可能性を感じ、その分野に進出することを決意した。「でも、当時の三井には三野村自身も含めて近代事業に必要な知識を持つ人材が育っていませんでした。そこで目をつけたのが、政府内の意見対立で大蔵大輔を井上馨と共に辞職した益田孝です」(米倉)。
益田は井上らと共に、租税米を換金流通させる石代米事業、国内物産や高島炭鉱の流通売買、海外貿易を行う先収会社という商社を設立していた。しかし井上の政界復帰で解散。「先収社の事業は三井物産を設立して引き継ぎ、当時まだ28 歳の益田孝を社長としたのです。三野村に次いで外部からの登用。三井の近代化を推進し、後の三井財閥の一角を担う企業へと成長させました。このように人材的イノベーションを行えない企業は、結局生き残れないのです」(米倉)。
三菱の設立、人的資源に投資
岩崎彌太郎
三菱の創設者、岩崎彌太郎は土佐藩の下士の家柄に生まれた。幕末には同郷の志士、坂本龍馬のような目立った政治的活動は行っていない。「三菱の前身が創設されたのは1870年。それからわずか15年余りで、三井と肩を並べる異例の高度成長を遂げました。創業期は銀行や紡績、鉱業などの重要分野で先行する財閥と競合しない新事業で糸口を見出す必要があったのですが、逆にそれが成長の礎になりました。最初に参入したコアビジネスである海運事業の補完事業を内部化することで多角的事業体として発展したのです」(米倉)。
例えば操船に必要な知識と技術を習得させるために三菱商船学校、それに加え、三菱商業学校を設立して生徒を集めて学ばせている。これは自社の人的資源を確保するための投資である。そして船舶の燃料確保のために炭鉱業、そして造船へと、政府からの払い下げや共同出資、事業体の買収などで多角的事業体への創造的対応を進めたのだ。
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