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世界38カ国、800万人が愛読する経済誌の日本版

経営学者の米倉誠一郎

幕末から明治維新。日本の国体が劇的に変化した、まさにイノベーティブな出来事だった。英傑たちが成し遂げたクリエイティブなイノベーションの数々を、経営学者の米倉誠一郎氏に聞いた。

先見性とリバースエンジニアリング 高島秋帆

当時、多くの志士や幕閣、坂本龍馬や高杉晋作、吉田松陰、そして西郷隆盛と勝海舟などが活躍した。

「そのような目立った人物のほかに、欧米列強のアジア進出とアヘン戦争の情報を集め、激変する世界情勢と日本の社会構造を危機管理意識まで高め、独自に創造的対応を示した人物が高島秋帆です」(米倉誠一郎。以下、同)

高島秋帆は、長崎町年寄にして「高島砲術」の創始者。出島のオランダ人を通じて語学と西洋砲術を学び、日本の砲術技術を高めた人物だ。

「秋帆は長崎会所調役頭取も兼務していました。長崎会所というのは、当時の日本で唯一、公式に海外との貿易を行う場所です。西洋諸国の事情や近隣のアジア情勢が直接入ってくるのです。イギリスと清のアヘン戦争で危機感を高めた秋帆は、諸外国に対抗するには、本格的な西洋砲術習得が不可欠と考えたのです。砲術修業に励むと同時に、実際にモルチール砲を輸入して分解模造、つまり今で言うリバースエンジニアリングを行いました」
 
この大砲は海防を必要とする諸藩に広く知られ、「秋帆は長崎会所調役頭取も兼務していました。長崎会所というのは、当時の日本で唯一、公式に海外との貿易を行う場所です。西洋諸国の事情や近隣のアジア情勢が直接入ってくるのです。イギリスと清のアヘン戦争で危機感を高めた秋帆は、諸外国に対抗するには、本格的な西洋砲術習得が不可欠と考えたのです。砲術修業に励むと同時に、実際にモルチール砲を輸入して分解模造、つまり今で言うリバースエンジニアリングを行いました」
 
この大砲は海防を必要とする諸藩に広く知られ、秋帆は各藩の求めに応じてレプリカを製造販売した。また、歩兵銃や拳銃、弾薬や火薬、時計に方位磁石、望遠鏡なども私貿易によって輸入した。

「資金は町年寄に許されていた特権、脇荷貿易による利益です。諸藩にレプリカの武器を売って得た収益も相当なものだったことが想像できます。その金を元手に新たな武器を輸入して事業を拡大するというのが、秋帆の起業家としての一面です」
 
この一面が、倒幕に向かう薩摩や長州の軍備の近代化に大きく貢献したことは言うまでもない。「一方で秋帆は、西洋の書物も大量に購入しています。その数は、当時の幕府が持っていた昌平黌(しょうへいこう)学問所が所蔵するものよりも多かったといいます。そうやって秋帆は技術と知識を深めていったのです。外国からの物品の輸入と分解模造で優れた技術に触れ、書物を読むことで得た知識が蓄積すると、通商こそが国を富ませる技術であり、発展させる術だという思考に向かわせました。今までにないイノベーティブな発想です」
 
事実、1853年にペリーが開国を迫ったとき、幕閣の多くが「夷狄討つべし」といきり立つ中、「武力を交えず開国して通商するべし」と上申している。「秋帆は、武力では勝ち目はなく、世界で生き延びるには通商しかない、国際競争力を持つことが創造的対応であると考えたに違いありません」



高島秋帆◎1798年に長崎町年寄・高島四郎兵衛茂紀の三男として生まれる。1814年に父の役職と砲術師範役を受け継ぎ、砲台受け持ちとして砲術研究に励み、個人貿易も行った。

通貨財政政策への創造的対応 大隈重信



高島秋帆らの通商開国路線はどうにかなったものの、幕府の優柔不断な交渉で不平等な日米修好通商条約の締結に結びついた。他のアジア諸国のように植民地化は防げたが、結果、尊王攘夷運動につながり、明治維新を迎えたと言っていい。

「薩長中心の下級武士たちによりなされた明治維新ですが、数年間は身分を解かれた同じ下級武士や元幕閣などの反動勢力の巻き返しにあってもおかしくない状態でした。その反動分子を経済的にうまく処理したのが大隈重信です」
 
大隈は、維新ではそれほど実績を上げた人物ではないが、キリシタン弾圧に抗議する欧米諸国との折衝の中で国際感覚を身に付けていった。「大隈は万邦対峙をかかげて諸外国と対等の交渉に臨みますが、諸外国は日本の通貨も財政も信頼していませんでした。それに財政構造を立て直さなければ外交交渉もできないと考え、通貨財政制度の整備に乗り出します」
 
特に負担となり問題となっていたのが幕藩体制下で士族に支給されていた俸禄だ。一方的に廃止すれば反乱を招く可能性があった。

「そこで数年分の俸禄を合算し、総額に7%の利子を付けた公債を発行、今で言うバウチャー制度を生み出して生活を保障しました。つまり身分を有償撤廃したのです。同時に旧士族たちが起業や農工商の仕事に就けるように、士族授産政策も実施、相互補完的なイノベーションを行ったのです」
 
この政策によって国内の財政問題の一部は解決した。次は諸外国との通貨問題である。

「簡単に言うと、国立銀行制度の設立です。その背景には紆余曲折があったものの、先ほどの士族解体、俸禄処分策と相まって、結果的に金融機関が設立されて紙幣流通の安定をもたらしました」
 
その詳しい経緯については米倉の著作『イノベーターたちの日本史 近代日本の創造的対応』(東洋経済新報社)に詳しいので、一読を勧めたい。 

大隈ら維新の志士たちは新政府の外務官僚となり、諸外国との折衝は貨幣制度確立と財政基盤の安定がなければ、万邦対峙の独立国として振る舞うことができないことを理解していったのである。これは現在の日本にも同じことが言えるだろう。

大隈重信◎1838年に長崎砲台の指揮官を務めた佐賀藩士の父・信保の長男として生まれた。もともと蘭学を学ぶも、英学の重要性を感じ、特に先進的なアメリカの政治経済、司法、科学技術を学んだ。


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文=松尾直俊 写真=小田駿一 高島秋帆=松月院、板橋区立郷土資料館提供 大隈重信=国立国会図書館提供

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