だって、最初の導入から最後の最後まで、曲もセリフも全く同じ。曲に至っては聴いておぼえちゃってたりする舞台を見にいくのである。何が楽しいって「ここでこうなって、この声の高まりで私はぷっつんしたい!」という予定された感情の高まりを体験することにつきるのだ。
しかし、同じ演目であっても違いもある。指揮者によって、オーケストラによって、演出や舞台美術、衣装によって、そして何より、歌っている人のその声の違い、はたまた同じ人が歌っていてもその人のその日の調子によって、そう、人のちょっとした違いで、一回一回がまったく違う、彩り豊かな感覚を味わう体験に没入するのがワクワクなのだ。
「自分にとって最高」をに出会う
だからこそ、できれば、生の舞台でその感覚を味わいたい。殊にクラシックの音楽は機械で音を増幅しない。歌手も、三千席を超える舞台であってもマイクなど使わない。全てがアコースティックだし、機械では拾えない倍音だらけの音、その日のオーケストラと歌手の音量の塩梅をこそ聞きたいのだ。
でも、舞台は生もの。相性がある。一生懸命舞台を努めてくれたとしても、あまりにも技術が伴わないのはいやだし、技術ばっかりで感情の高まりが感じられないのも味気ない。
どんなに素晴らしくても、「私にとってはちがう」と思ってしまうこともある。だから何度も出かけて行って、自分にとって記憶に残る一夜を追い求めてしまう。全てが完璧で理想的な夜はなかなか体験できないし、あとから「ああ、あれがそうだったんだ」と気付くことも多いのだけれど、そういう風にあらためて気がつくのもまた風情がある。
私の記憶に残っているいくつかの舞台のうちの一つに、今年から新国立歌劇場で芸術監督に就任された大野和史士氏がメトロポリタン歌劇にデビューした2007年の舞台がある。演目はヴェルディ作曲の『アイーダ』。そう、サッカースタジアムで歌われる“あれ”である。ブロードウェイで翻案されたミュージカルの「アイーダ」は、劇団四季も上演している。
もっとも、オリジナルのオペラは悲劇で、最後に主人公二人、ヒロインのアイーダとその恋人ラダメスが地下の墓所で死んでいく。その上の神殿では、ラダメスを愛するあまり彼を死に追いやったアムネリスが祈りをささげる、有名な二重舞台シーンで終わる。
『アイーダ』アムネリス役アニタ・ラチヴェリシュヴェリ(上)、アイーダ役アンナ・ネトレプコ(下)(c)MartySohl/MetropolitanOpera
ヴェルディが、人生の後半、エジプトからカイロの劇場のためにと依頼をうけて書いたこのオペラ。気乗りしない中、法外な作曲料と随分な条件をっ吹っ掛けながらも引き受けたのは、「あなたが書いてくれないないなら、ワーグナーに頼みます」と同時代のライバルの名をあげてあおられたこともあるとか。奇しくもこのオペラはヴェルディが依頼を受けて作曲した最後のオペラとなった。