野球とビールの街に笑顔をもたらした「誰もいない」球場

ヘルファー・フィールドの内野の壁に展示されたカウンティ・スタジアムの歴史を紹介するパネル


1953年3月、メジャーリーグのコミッショナーによって、ボストン・ブレーブス(現アトランタ・ブレーブス、メジャーで現存する最古の球団)のミルウォーキーへの移転が発表された。するとその翌日、1万人以上のミルウォーキー市民がカウンティ・スタジアムに駆けつけ、シートに腰を下ろし、誰もいないグランドに向かって笑顔を送ったと言う。

当時はまだインターネットがなかった時代だ。そんな時代に、大勢の市民が嬉しさのあまりに、まだ開場すらしていない球場にゾロゾロと集まり、それぞれの思いを馳せて、誰もいないグランドをただ見つめたのだ。彼らのそれぞれの思いを想像しただけで、ほのぼのとしてしまう心温まるエピソードだ。

地元ファン待望のカウンティ・スタジアムは、1953年4月6日に開場した。開場時から照明塔が設置された球場はメジャーリーグで初めて。同年にボストンから移転してきたブレーブスがアトランタに移転する1965年まで、その後1970年にシアトルから移転してきた新生ブリュワーズが2000年まで本拠地としていた。

1966年から1969年まで、再びミルウォーキーにメジャー球団がなくなったため、シカゴ・ホワイトソックスが1968年に9試合、1969年に11試合、この球場で公式戦を行った他、NFLのグリーンベイ・パッカーズが1953年から1994年まで、この球場で数試合消化している。

映画「メジャー・リーグ」は、クリーブランド・インディアンズの映画であるが、この球場で撮影されている。この球場で場外本塁打を記録したのは、阪神タイガースでも活躍したセシル・フィルダーただ一人という。

跡地に残る「愛された証」

1996年からカウンティ・スタジアムの隣に新球場ミラー・パークの建設が始まった。開閉式の屋根付きのミラー・パークは、2000年に開場予定だったが、建設工事中に巨大クレーンが倒壊し、作業員3名が死亡する事故が発生したこともあり、約4年半もかかる難工事となり、予定より1年遅れて2001年に開場した。

新球場の完成に伴い、カウンティ・スタジアムは2000年シーズン終了と共に閉場となり、2001年に取り壊され、跡地にはミラー・パークの駐車場と少年向けの野球場ヘルファー・フィールドが建設された。ヘルファー・フィールドの三塁側スタンドには、かつてカウンティ・スタジアムのホームプレートの場所を示すプレートが埋め込まれており、その周りにバッターボックスが描かれている。


かつてのカウンティ・スタジアムのホームプレートの場所を示すプレートとバッターボックス。

また、ヘルファー・フィールドのファールポールは、もともとカウンティ・スタジアムで使用されていたもので、内野の壁には、カウンティ・スタジアムの歴史を紹介するパネルが展示されてる。更に、ミラー・パークの駐車場には、1976年7月20日にハンク・アーロンの生涯最後の本塁打が落下した場所があり、それを記念するプレートが設置されている。

このように、跡地にはカウンティ・スタジアムの歴史が大切に残されている。カウンティ・スタジアムは、取り壊された後も市民の深い愛情に包まれているのだ。

ところで、ミラー・パークといえばソーセージ・レースが有名だ。カウンティ・スタジアム時代の1990年代に始まり、ミラー・パークでも受け継がれているこれは、ブラットワースト、ポリッシュ・ソーセージ、ホットドッグ、イタリアン・ソーセージ、チェリソを模したマスコットによるレースで、かつて、野茂英雄氏が現役選手にポリッシュ・ソーセージとして出場し、一着になったことがある。



最近では、この種のマスコットのレースはメジャーのみならず、マイナーリーグや独立リーグでも必ずとって良いほど球場で見かけるようになった。
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文=香里幸広

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