野球とビールの街に笑顔をもたらした「誰もいない」球場

ヘルファー・フィールドの内野の壁に展示されたカウンティ・スタジアムの歴史を紹介するパネル

アメリカで最も有名なスポーツ雑誌といえば、スポーツ・イラストレーテッド誌(SI)だろう。SIは表紙こだわりがあり、最も注目のアスリートの写真を表紙に使用することで知られている。それは、表紙に採用されるアスリートにとっても名誉となる。

初めて日本人選手としてこの表紙を飾ったのは、世界の王、王貞治氏(1977年8月15日号)だ。1995年にメジャー・リーグ・デビューした野茂英雄氏が同年7月10日号の表紙を飾ったのは有名であるが、その前年に元西武ライオンズ監督の渡辺久信氏が表紙になっていたのは意外と知られていない。


SI誌創刊号の表紙を飾る、カウンティ・スタジアム(1954年8月16日創刊号復刻版)

SIは1954年8月16日に創刊した。世界最大のスポーツ・コレクター・ショー「ザ・ナショナル」の会場で購入したSIの創刊号が手元にあるが、僕の一番のお気に入りのがこの創刊号だ。

その表紙を飾るのが、内野手エディ・マシューズと、ミルウォーキーにかつてあったカウンティ・スタジアム。マシューズの力強いスイングと、今はなきオールド・ボールパークの照明、柱の多い鉄筋コンクリートのマッチングがとても美しくて絵になる。つい、うっとりしてしまう。

野球好きの市民、待望の球場

エディ・マシューズは、1952年にメジャーに昇格し、1953年に47本塁打でナショナル・リーグの本塁打王を獲得、SIが創刊された1954年は40本、1955年には47本と3年連続で40本塁打を記録し全盛期だった。1968年に現役を引退。1978年に殿堂入りを果たし、ブレーブスは彼の背番号41を永久欠番とした。

ミルウォーキーには、1901年のアメリカンリーグ発足時にメジャーリーグの球団があったが、1年限りでセントルイスに移転してしまい(セントルイス・ブラウンズ、現ボルチモア・オリオールズ)、それ以来メジャーリーグの球団はなかった。

古くから野球がとても盛んなこの街は、メジャーリーグ球団を誘致するために、1950年に公的資金を投じて新球場の建設を始めた。それがエディ・マシューズと共にSI創刊号の表紙を飾ったカウンティ・スタジアムだ。そして、1953年、球団の誕生を心待ちにしていたミルウォーキー市民の夢が叶う。

これは、映画「フィールド・オブ・ドリームズ」の原作、W.P.キンセラ著の「シューレス・ジョー」の中でも紹介されているが、カウンティ・スタジアムにまつわる実際にあったエピソードを一つ紹介したい。
次ページ > カウンティ・スタジアムにまつわる心温まるエピソード

文=香里幸広

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