ムーミー・トローリは、1980年代後半、ソ連邦が崩壊に向かう過渡期にデビューしたロシアを代表するバンドで、フィンランドの画家、トーべ・ヤンソン作のムーミン・トロールがバンド名の由来である。世界的なヒット曲は「ウラジオストク2000」(1997年)で、海外公演や来日経験も多く、最近では昨年11月末に渋谷でライブも行っている。
ラグテンコ氏とバンドのメンバーの大半は、ウラジオストクの出身だ。この極東ロシアの港町は、成田からわずかフライト2時間半という近さから、このところ日本人渡航者が増えている。ウラジオストクの極東連邦大学で中国語を学んだという彼は、近隣アジアの国々への関心も深く、日本人の来訪を歓迎している、と語っている。
今回、関係者を通じてラグテンコ氏のインタビューが実現した。日本海の対岸に暮らすウラジオストクの人たちが、日本や中国などの隣国をどのように見ているのかがうかがえる、興味深い内容となった。インタビューは、メールでの質問へのラグテンコ氏本人からの回答によるものだ。
ラグテンコ氏の独特の枯れた歌声が魅力的。(c)Vladimir Astapkovich
──昨年11月、東京で行われたライブの感想や思い出を教えてください。
ロシアの芸術・文化を海外へ発信するプロジェクト「ロシアンシーズン 2017」の一環で、ムーミー・トローリとして、初の日本でのワンマンライブが東京で実現しました。過去にもフェスティバル等で来日した経験はあり、2016年10月にはヴィジュアル系音楽フェス「JAPAN VISUAL SUMMIT」に、唯一の海外バンドとして出演しています。
昨年、僕たちは本格デビュー後の最初のアルバム「モルスカヤ」(1997年)の発売20周年を記念して国内外の都市でライブを行いましたが、東京公演では「ディエーヴァチカ(少女)」というアルバム収録曲を日本語で歌いました。
日本語は、函館にあるロシア極東連邦総合大学函館校の学生たちが翻訳をしてくれたものです。オーディエンスの言葉を借りると、僕は日本語で歌うのがけっこう上手いらしい、です。
──ロシアと日本のオーディエンスに違いはありますか。これからも日本でライブをしたいですか。
僕が思うに、日本のみなさんにとって、ロシアは「未知なる国」という印象が強いのではないでしょうか。だから、僕たちのようなロシアのアーティストによるライブは、好奇心旺盛でエキゾチックなことが好きな人たちに支持されているのかもしれない。
それでも、僕たちはこれまでの何度かの公演で日本のファンを獲得することができたと感じています。日本のみなさんは私たちのことを決して忘れないだろうと実感しました。
もちろん、もっと頻繁に日本を訪れたいと思っています。多くのアーティストにとって日本という国は刺激的で、数々のインスピレーションを与えてくれる。僕もその例外ではありません。
──初来日のことを教えてください。
ムーミー・トローリの初来日は1998年、NHKの招待で実現しました。函館のロックフェスティバルに出演することになったのですが、そのとき初めて日本のミュージシャンやリスナーたちと出会って、とても刺激を受けました。現代日本の音楽における、日本語の奥深さと多様性が記憶に焼き付いています。当時僕らの演奏を観てくれた人たちとは、いまでもネットでつながっています。