──学校制度を変えたいと思うような出来事があったのでしょうか。
はい。まず、僕は生まれつきの分娩麻痺のせいで、脇の方向に肘を締める筋力がなく、小学生の頃はいじめに遭っていました。これは障がいについてみんなで考えるいい機会にもなったはずですが、生徒も先生も何か臭いものには蓋をするような対応に終始していたように思います。
高校では周囲の同級生との人付き合いは上手くなっていたのですが、今度は学校とこじれてしまって。小学校から高校まで通っていた北九州の明治学園高校は進学で、医学部受験を強く薦めていたんです。
ところが、僕は政治家になるのが当時の夢だった。そのために原丈人『21世紀の国富論』や小宮山宏『課題解決先進国』などを読んで読書ノートをまとめたり、自分が政治家になった時のマニフェストを勝手に作ったりしていました。つくったノートは10冊以上、マニフェストも50ページ以上の量です。
AO義塾には、斎木が学生時代に書きためたノートが保管されている。
ですが、そうした活動は高校では「そんなことをしているから偏差値が下がる」と一蹴されました。さらに許せなかったのは、学校の態度。明治学園はケータイ持ち込みや男女交際の禁止などかなり校則が厳しく、男女交際を理由に実際に退学させられた人までいました。
なのに成績優秀者のカップルは黙認されていた。進学実績を上げるためだと思うのですが、こうしたダブルスタンダードに憤りを隠せませんでした。
僕のAO入試受験を巡って学校との対立はピークに達し、結局、遅刻回数が多かったこともあって、高校3年の12月に退学になってしまった。学校なんてどうでもいいと決めつけてサボりがちだった僕が一番悪いですが、学校は「個性の尊重」とは正反対の環境だったと思っています。
──その後は通信制に通い、AO入試で退学前に合格していた慶應義塾に進学しました。大学1年の冬にはAO入試専門の予備校「AO義塾」をつくります。予備校で教育業界に関わっていた中で、改めてルークスを立ち上げたのは何故でしょうか。
退学になっても受け入れてくれた慶應義塾大学、そしてAO入試への恩返しをしたいという思いがありました。AO入試は高校では評価されなかった「マニフェスト」を評価し、「そもそもあなたにとって政治とは何か?」といった政治の本質に向き合うきっかけをくれました。
学力だけでなく人間性や志を評価してくれるAO入試は、これからの社会により必要とされるはずです。
ですが、AO義塾は「大学受験塾」という立場のため、どうしても既存の大学に従属的な立場にならざるをえない。特にAO入試の採点者が、人間性や志の定性的な評価よりも、学校の成績や海外在住経験などの定量的な評価を重視するのはどうかと思います。
定量的な評価は否定しませんが、定性的な評価を重視しなければこれまでの知識偏重の入試制度の代替案にならない。そうした評価の最終決定権が私たちにないのが、受験塾としての限界だと感じています。
加えて、時間的制約も挙げられます。いくらAO義塾で理想の教育を実現できても、学校で過ごす時間の方が相対的に多い。もっとAO義塾のような学びの時間を拡大させたいと常々思ってきました。
だからこそルークスでは、「新しい学校という形式」をとることで、AO義塾で行われてきた学びをさらに拡張していきたい。もちろん、AO義塾にも継続的に取り組みながらですね。
理想は、吉田松陰の松下村塾です。あらゆる人が入学でき、旧来の学校教育制度やカリキュラムに縛られずに一人ひとりが個性を伸ばすことができる。そんな新しい学校像を提示できたらいいですね。