その長い歴史の中で、多くの球団が経営難に直面したり、メジャーリーグの本拠地移転のあおりを受けるなど、幾多の苦難を経験してきたが、それを支えてきたのは地元のファンだ。
とりわけ、ツイン・シティーズ(ミネソタ州ミネアポリスとセントポール両市都市圏の通称)の人々は、長きにわたり、この両都市を本拠とする双子球団を支え続け、球団が消滅した後も、その歴史と伝統を大切に守ると共に、後世に伝えるための献身的な努力を続けている。
老舗バーに守られる歴史
セントポールのダウンタウンの西に、ポーランド、ドイツ、アイルランドなどからの移民が多く住んでいるフロッグタウンと呼ばれる小さな地域がある。何の変哲もない、どこにでもあるアメリカの住宅街だ。その中に、アメリカで禁酒法が施行される前の1905年にオープンしたニッケル・ジョイントというスポーツバーがある。セントポールで最も古いタバーン(パブレストラン)の一つだ。
ニッケル・ジョイントの店内
店内には、オープン当時からこの地域で活動していたアマチュア、独立リーグ、マイナーリーグの選手の写真がたくさん飾られている。その中に1957年に撮影された店の外観の写真があるが、建物の外観はほとんど当時のままだ。
正面ドアの上部には、ラリー・ローゼンタールが野球界から引退した後に働いていたジェイコブ・シュミット・ビールの広告用のサインがあった。おそらくメジャー通の人の中でもこの選手を知る人は少ないだろう。フロッグタウン出身のローゼンタールは、1936年から1945年までホワイトソックスやインディアンズなどでプレイしたポーランド系の左投げ左打ちの外野手だ。
彼は、1936年6月20日にホワイトソックスでデビューし、最初の29打席で14安打、最初の50試合で1試合3安打以上を19回も記録した。これは、ジョー・ディマジオなど名選手を凌ぐメジャー記録だという。また、1500打席以下しか打席に立っていない選手の中では、四球の数が歴代2位という珍記録も保持している(1位はヤンキース時代に松井秀喜の同僚だったジェイソン・ジアンビの弟ジェレミー)。
彼は、メジャーでプレイする前は、フロッグタウンの草野球チームの他、地元のマイナーリーグ、セントポール・セインツでプレイした。ニッケル・ジョイントは、そのセインツのメンバーが集う場所だった。彼らはこのバーに集まり、野球について熱く語り、そして様々なチャリティ・イベントも催したという。その伝統が今でも引き継がれている。
このバーの奥にはダンスホールがあるのだが、今でもそこで地元の草野球チームが定期的に集会を行っている。僕がこの店を訪れた日は、ちょうどその日で、店員と野球メンバーたちが慌ただしく準備に追われていた。