6月18日朝、大阪で震度6弱の地震が発生した。医師はどんな場面でも「平静の心」を保てるよう日々修練して、心の準備をしなければならない。それができないと、助けられる命も助けられないからだ。その象徴的な出来事は、23年前に起きた。
1995年3月、オウム真理教による地下鉄サリン事件が発生した。私の勤める慈恵医大の最寄り駅「神谷町」でもサリンがまかれ、病院で多くの被害者を受け入れた。しかし、報道陣をシャットアウトしたため、その対応は一般には知られていない。
救急室に最初の被害者が来院したのは8時半前後。重症者はたいがい後から運び込まれる。多くの人々が「呼吸が苦しい、目の前が暗い」と口々に訴えた。当時はまだ救急医学講座がなく、患者の訴えに応じて看護師が関係しそうな科の当直医を呼ぶシステムだった。朝の各科カンファレンスの時間帯とぶつかり、医師をつかまえにくい。被害者は瞬く間に救急室から溢れ出した。
9時頃、医師も外来や病棟に出て、自主的に対応し始めた。救急当番だった外科の赤羽紀武教授がリーダーとなり、治療方針の統一を試みた。被害者は救急室だけでなく、外来の長椅子や病棟の空きベッドにも散在し、主治医もいない状況だったからだ。
患者たちは瞳孔が小さくなっている。「今までの経験では説明できない何か大変なことが起こっている」と直感した赤羽教授は、躊躇なく法医学の高津光洋教授に助言を求めた。最初の被害者が来院してから約1時間後のことだ。
高津教授は直ちに救急室で被害者を診察し、「農薬などの有機リン(サリンは有機リン化合物)中毒の症状と一致します。解毒剤はPAM(ヨウ化プラリドキシム)です」と速やかに結論を下した。その場で病院内薬局に問い合わせると、PAMは2アンプルのみ。すぐさま全ての問屋からPAMを大量に取り寄せるよう指示が飛ぶ。病院にあった2アンプルは、意識障害と血圧低下で最重症者に即刻投与された。
まもなくPAMも大量に届くと、治療方針を記した用紙が各部署に配られた。患者の数は増える一方だ。院長を対策本部長としてトリアージドクターを配し、生命に危険のある者は集中治療室へ、重症だがしばらく待てる者は被害者専用病棟へ、そして緊急性の少ない縮瞳だけの患者は中庭の臨床講堂へ運び込まれた。
一方、被害者を受け入れた多くの病院は11時頃の警察の正式発表でサリン中毒と知った。PAMを関西などから取り寄せ、その投与は午後になったという。的確な判断に基づき、速やかな初動をとった慈恵医大は、2000人以上のサリン被害者を受け入れたにもかかわらず1人も死者を出さなかった。
心の準備はできているか? 6月の大阪の地震は、座禅で身体を打つ「警策」かもしれない。
うらしま・みつよし◎1962年生まれ。東京慈恵会医大卒。小児科医として小児がん医療に献身。ハーバード大大学院にて予防医学・危機管理を学び実践中。今年6月に『病気スレスレな症例への生活処方箋』(医学書院)を出版。