祖母の死去について看護師から電話を受けた後、私はしばらく泣いたが、その悲しみはすぐに予想もしなかった感情に変わった。その後数日間、祖母の葬儀を見届けるべく移動する中で、私は祖母の死を信じられない気持ちと制御できない怒りを代わる代わる感じた。怒りを感じ始めたのは祖母が亡くなる前の数週間だったが、彼女が死ぬとその感情は爆発した。
私は最初その重みにつぶされ、混沌(こんとん)の中に自分を見失いそうになった。争いの多い状況や痛み、無力感が嵐となり、未来を全て飲み込んでしまいそうになった。
私はそこでしっかりと地に足をつけ、この怪物の目を見つめることを決めた。私は毎日目を覚まし、このスタンスを貫くようにしている。この手詰まりの状態がどれだけ続くかはわからない。全く進捗が見られないと感じるときもあれば、自分が大きく進歩したと感じるときもある。
悲しみの克服は不思議なプロセス
大半の人は、悲しみとはどのようなものかについて固定観念を持っている。しかし、自分に近しい人を亡くすまで、自分がどのように感じるかは分からない。実際に持つ感情は、自分の置かれた状況や亡くなった人との関係により大きく違うこともある。
絶望にむしばまれているように感じる可能性もある一方、最初に持つ感情は、死が信じられないという気持ちである可能性が高い。「昨日話したばかりなのに」「昨日のこの時間には生きていたのに」などと思うかもしれない。
私は食料品店に出掛けても、祖母がたった今死去したことを誰もが知っているはずだと確信していた。彼女ほど不屈の精神のある人が亡くなったのに、世界がそれに気づかないはずなどない、と思っていた。しかしもちろん、そうではない。私の近しい家族以外は、全くそんなことは知らないのだ。
生活が真っ逆さまになり、これほどの喪失を経験したのに、それでも世界は回っていることに気づくのは現実離れした感覚だ。どれほどあなたが傷ついていても、世界は前へと進み続ける。あなたはそのことで葛藤を抱え、混乱するかもしれない。