最初の患者は孤児、その直後に運ばれてきた患者は町の有力者である市長。病院長は市長のオペを優先しろと言うが、テンマは、命の尊さは皆同じとの信念のもと、最初に運ばれてきた孤児の命を見事なオペで救い、市長のオペは別の医師に委ねる。
この「MONSTER」のストーリーは、ビッグデータ時代の人間の尊厳を考える上でも示唆的である。
差別につながるリスク
ビッグデータは、人間の「違い」を炙り出す効果的な道具となる。この人のネットショッピングの履歴は、あの人とはこう「違う」から、この人には特にこういう宣伝をかければ効果的だろう、と。
同じように、ある病気にかかっている人々をみると、他の人々と違って、特にこういう体質を持っていることが多いので、そうした人々は予め注意して下さいね、というデータの使い方なら、誰もが有益だと思うだろう。しかし、ある罪を犯した人々は特にこういう性質を持っていることが多いから、そうした性質を持つ人々は予め隔離してしまおうとなれば、それは現代社会ではとても許されない話である。
ビッグデータ社会には、このようなわかりやすい極端な例の中間にある難題が次々と表れてくるだろう。
人種や民族、ジェンダーによるアプリオリな差別は行ってはならないという認識は、文明国ではさすがに共有されていると信じたい。しかし、歴史上、例えば「洗濯物を外に干す習慣を持つ人々」という特性が実質的な黄色人種差別に使われるなどの事例は数多い。人間の側がきちんとした常識を持たない限り、ビッグデータの活用が、同様の差別につながるリスクは常にある。
現金の100円は100円だが……
そして、現在話題の「キャッシュレス化」についても、同じような論点がないわけではない。
現在グローバルに進んでいる「キャッシュレス化」は、単に支払や決済をデジタル技術を使って効率化したいというだけではなく、支払手段に付随するデータを有効活用したいという動機にも支えられている。このように、支払手段が多くのデータを伴うようになることは、大きな可能性を生む一方で、リスクも含んでいる(サイバー攻撃なども、その一つであろう)。
「価値」以外のデータを伴っていない現金は、ある意味、平等な手段とも言える。もちろん、「貧富の差」は常に経済学が取り組むべき重要な課題であり、これはあくまで、支払手段としての現金の性質に焦点を絞った場合の話だが、市長が持つ百円も子供が握りしめる百円も同じだからこそ、誰もが等しくアイスクリームを買える機会がある訳である。