高校時代は、「賞」のために写真を撮っていた
──詳しく教えてください。
高校では、「賞をとる」ために写真を撮っていました。高校の写真部の大会って、入賞すると全国大会のようなものがあって、地方にタダで行けるんです。それが目当てで頑張っていました(笑)。
撮っていた写真も、今は風景画が中心ですが、当時は人物写真が多かったです。誰が見てもわかりやすい、綺麗で美しいものが高校の審査では評価されることがわかっていたので、高校の文化祭の写真とか、そういうものを選んで撮っていましたね。
心から撮りたいとは思っていないものをショーレースのために撮る。そんな、いわば「あざとい」高校生でした。
──そんな吉田さんが、大学でも写真を真剣に学ぼうと思われた理由は何だったんですか?
写真部の顧問の先生が、高校時代に一度も褒めてくれなかったんですよ。受賞したり、大会に出たりしても。
でも、部活を引退する直前に出た最後の小さな大会で一番下の賞に入れたときに、一言「お前やるじゃん」と言ってくれて……。それが本当に嬉しくて、写真が自分の進路の一つとして入ってきました。今思えば、少し単純すぎるかもしれませんが(笑)。
──写真以外の選択肢はあったのでしょうか?
もともとは、普通に大学を受験しようと思っていました。医療か心理学を学びたいと思っていて。ただ写真を進路として考え始めて両方を天秤にかけた時に、「どちらにせよ大変な進路だな」と思ったんです。
「両方ともいばらの道なら、写真を選んでも大丈夫だろう」と。最終的には「なるようになれ」と思っていました。
「わかりやすいもの」から「わかりにくくても伝えたいもの」へ
「測量|山」2016
──大学では、どのような学校生活を送られていましたか?
寝ても覚めても写真のことばかり考えていました。写真に対しての、自分なりのこだわりが生まれ始めたのが大学時代でしたね。
大学1、2年生のときは、いわゆるフィルムのモノクロ写真しか授業で撮らせてもらえなかったんですよ。35mmのフィルムで、モノクロで、とにかく綺麗に焼く練習をする。みんなデジタルカメラを買って入学するのに、最初は全然使わない。中にはモヤモヤしている同級生もいましたが、私はむしろどんどんフィルムカメラの魅力に取りつかれていきました。
大学には写真部があって、部に入ると暗室が使い放題だったんです。だから写真部に入って、朝5時から夜中までずっと暗室にいるような生活が続きました。
──フィルムカメラの何がそんなに吉田さんを惹きつけたんでしょう?
フィルムは、全部自分でコントロールできるんですよね。撮影も、現像も、プリントも。上がりがその時にはわからないので、とにかく撮って焼くしかない。その不確実性が私には合っていたのだと思います。
私はあまり熱中できないタイプで、それまで一つの趣味に熱を入れることがまったくなかったんです。だから、こんなにも何か一つのことに熱中できた自分に対してすごく驚きました。
──当時はどんなものを撮られていたんですか?
最初は高校の延長線上で、ポートレートのようなわかりやすいものを撮っていたんですが、一つ上の先輩に、抽象的な写真を撮って表現している先輩がいて。たとえば風景を何パターンか組み合わせて何か別のものを表現する、といったような。そこではじめて「写真で表現する」「作品を作る」ということを学びました。
高校の時は、1枚でいかにわかりやすいかを大切にしていたのですが、大学のときは、わからなくてもいいから、複数枚で自分の伝えたいことを表現する方にシフトしていきましたね。そこから、人じゃなくて風景を撮るようになり、今の作風になっていきました。