──まずは、和田さんが現在取り組んできたことを教えてください。
インタープリターとして、さまざまなプロジェクトにかかわってきました。目の見えないサウンドデザイナーの野澤幸雄さんと共同で、実世界に音のタグをつける「altag」の開発をしたり、ANREALAGE、RhizomatiksResearch、ダイアログ・イン・ザ・ダークのアテンドを務める檜山晃さんたちとともに、振動によって空間を認識できる「echo」という服をつくったりしました。
それと、手話通訳士として、ろう者の通訳も。複数のプロジェクトに取り組みながら、それぞれのミーティングや研究を行って、ボランティアをして…。ほんと、いろんなことを同時並行でやってきて、いまは「伝える」ための方法論を学んでいます。
──和田さんが開発した、カメラの前で手話を行うとイメージが連動する「Visual Creole(ビジュアル・クレオール)」も印象的です。
手話にはどうしても「音声言語より制限されている」というイメージがあるけど、言語としてとても豊かなんです。友人と手話で会話していると、「悲しくて、涙がどんどん流れて海になってしまった」とか、「なかなかアイデアが思いつかないから、脳みそを取り出して、ザバザバ洗って考え直す」とか。まるで自由に絵を描くように頭のなかのイメージを表現することができるんです。
手話には、思いを伝える「メディウム(媒材)」としての強さがある。耳の聞こえない方に限らず、より多くの方にとってのクレオール言語(共通言語をもたない人同士の間で生まれた言語)として、開かれていけばいいな、と思って。それで、手話表現を拡張するものとして、Visual Creoleを開発したんです。 世界の当たり前は「マジョリティの幻想」にすぎない
──和田さんがテクノロジーやデザインの領域を横断しながら、知覚の異なる方とコラボレーションするのは、ご両親がろう者という環境で育ったことは大きいのでしょうか。
そうですね。私にとって、手話は当たり前の言語としてありました。
たとえば、赤ちゃんと会話するときには「ぽんぽん(お腹)」とか「えんえん(泣く)」とか、手を動かしながら話しますよね。それは「ベビーサイン」と呼ばれるもの。そこからもう少し像を明確に描いて、頭のなかのイメージを伝え合うという試行錯誤から手話という言語が紡がれてきたと思うんです。
コミュニケーションを音声言語だけで考えていくと、どうしても辻褄の合わない感覚が昔からあって。大学でインタラクションデザインと出合ったとき、もっと手話自体の魅力を捉えて拡張していけるような気がしたんです。
耳が聞こえなかったり、目が見えなかったりする友人たちと、よく飲みに行ったり遊んだりするんですけど、彼らは想像力豊かで、問題意識があって、エネルギーをもらえる大切な人たち。私よりむしろ彼らに「0→1」のアイデアがあって、そこにある発見をどれだけ具現化できるかが私の役割だと思っています。彼らは世界を違うレイヤーで見せてくれる案内人であり、開拓者なんです。
──彼らの視点から世界を捉えると、まったく違って見える、と。
ちょっと話は変わりますが、18歳のころ、カンボジアへ行って、耳の聞こえない青年と会ったことがあるんです。その方は23歳だったんですけど、20歳になるまで手話教育を受けたことがなかった。言葉をもたずにずっと生活していたんです。ご飯を食べて、畑を耕して、自分の家と畑を行き来するのを15年続けていて。
けれども手話を知ったことで、この世界に朝、昼、夜という時間があって、季節があって、カンボジアという国があって、その外には違う国がある…と、初めて知ることができた。
彼のなかで点として存在していた世界が、手話という言語を獲得したことで立体的に構築されて、ものすごい勢いで広がっていったんです。それはまさに言語の可能性を感じるようなこと。人間の本質とは何か、言語とは何かを考えるきっかけになりました。同時に、私たちが当たり前に思ってることって、実はマジョリティのつくってきた幻想に過ぎない。本当はいろんなところにパラレルワールドがあるんじゃないかと、気づかされました。
そうやって彼らと話していると、世界の本質に触れた気がして、どんな本を読んだり、どんな体験をしたりすることよりも心が揺さぶられる。その感覚が楽しすぎて。なんとかしてこれをもっと多くの人とわかち合えないかなぁ、って思うんです。