土屋:当時からデザインとその他の領域に関する、バランス感覚があったわけですね。
中村:美大のカルチャーに染まらず、いろんな領域の人たちと接していたのが良かったのかもしれません。いすゞに入社してデザインを始めた頃も、先輩には早稲田理工出身の人や、芸大出身の海外経験が豊富な人が周りにいて、海外の文化や歴史の話から経済の話までいろんな議論を毎日していました。美大出身者の多いデザイン部門の人は、会社の中で枠に閉じこもる傾向にあるのですが、彼らはそれがなかった。社会人としての振る舞い方などのいい影響も受けたと思います。
そんな彼らと接していた私は当時から、デザイナーとしてトップレベルになることは当然として、もし明日「デザイナーを辞めろ」と言われても会社の他部門で通用する人材になろうと思っていました。だから、日産に入社してからも役員たちと違和感なく、コミュニケーションが図れたんだと思います。
いすゞに入社してから5年後には、大学の頃から希望していたロサンゼルスのアートセンターカレッジに留学をしたり、デトロイトのGMのデザインスタジオでも働き、海外でいろんな実務経験を積むことができました。
若いうちに小さな職場でマネジメント能力は身につける
土屋:その後、なぜマネジメント側に回ろうと思ったのでしょうか?
中村:ひたすらスケッチを描いてアイデアを出すことだけの仕事に、飽きてしまって。自分の考え方を実現できる新しい環境を求めて、ヨーロッパでのスタジオ立ち上げを会社に提案して、自ら駐在を志願したんです。イギリスでスタジオを借りてデザイナーを雇うところから始めたので、まるでデザイン会社をゼロからつくるようでした。小さな組織でしたが、本当に自由に任せてもらった。優秀な若手の才能を生かしてデザインをマネージすることがいい結果につながるし、自分にあってるなということを実感しましたね。
その後には、東南アジアでのプロジェクトにも関わりました。それまではとにかく大きな投資規模のプロジェクトを回していたのですが、ここではコストと投資を抑えながら良いものを作るにはどうすればいいかという、経営視点が不可欠でした。アメリカ本社で商品企画担当の副社長もやりました。デザイナーの相手側の立場を体験できたのがよかったですね。最終的にはデザイン部長になったのですが、全部で海外を入れて150名ぐらいの組織で、マネージするにはちょうどいいサイズでしたね。
土屋:さまざまな規模の会社で働くことで、マネジメントを身につけていったと。
中村:そうですね。いすゞというひとつの会社にいたのですが、さまざまな地域や分野で横断的に働くことをできたのは、本当に貴重な経験でした。大きな組織では自分がどういう役割なのかなかなか把握しづらいし、権限や責任もないですからね。若いうちには、小さな組織で自分の責任で分野を横断するように働いて、マネージメント経験を重ねる。その経験を活かして、より大きな組織のマネージをする。僕の場合は、結果的に日産という大企業で経営側に回るというキャリア形成につながった気がします。
土屋:メンバーが少ないと、必然的に役職をまたいで働かざるを得ないですよね。その後、1999年に当時、日産の社長だったゴーンさんに引き抜かれた。
中村:はい。「デザインを会社改革のシンボルにする」という考え方はゴーンがいたルノーでの経験からくるもので、それまでにない日本の自動車企業では初めての試みでした。
ヘッドハンターから話があった時には、何となくですが、日産からオファーされるだろうなと感じていました。クルマのデザイン業界のことはよく知っていたので、他に誰が候補に挙がっているのかはある程度予想できましたし、クリエイティブとマネジメントの両方を担えて海外経験の豊富な人間は、自分以外にいないだろうなと思っていました。
土屋:中村さんのような経歴の人は、日本には他にいないでしょうね。とはいえ、そんな状況では自由に働くのは大変そうな気がします。
中村:直接の上司はルノーからきた副社長だったのですが、とにかく彼が私をサポートしてくれました。私は当時からデザイナーは車のデザインをするだけではなく、お客様の目線で広くブランドに関わるべきだと思っていた。そんな視点は経営にとっても価値があると考えていました。その考えを汲んでくれて、彼がリーダーをしていたブランドマネジメントチームで積極的に私を活用してくれたんです。
テレビCMの出演も入社前には予想もできないことでしたね。自ら望んだことではないのですが、デザイナーが前面に出てメッセージを語るのは海外では珍しいことではないのに日本では誰もやってない。だから、あえて挑戦しました。結果的にはデザインのトップとしての新しい役割を社内外に知らしめることができたと思います。
土屋:その後、2006年に日産の執行役員兼CCOに就任します。これは自分から志願したのですか?
中村:その副社長がルノーに帰任するときに、ブランドリーダーの後継として私を指名してくれたんです。クルマという商品のデザインだけでなくブランド全体に責任を持つ立場、それを示す適切な肩書きが社内になかった。そこでCCOという広告代理店などで使われていたタイトルがふさわしいと思いつき、ゴーン社長に直接お願いしたんです。その当時には海外を含めて、自動車業界でこのタイトルにしたのは私が初めてだと思います。