元プロ陸上選手 為末大「20代、『座右の銘』がコロコロ変わるくらいでもいい」

元プロ陸上選手 為末大



2005年、世界陸上ヘルシンキ大会で48秒10のセカンドベストをマークし、銅メダルを獲得
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けれどもトラックでは記録が伸び悩んで、ああでもないこうでもないともがいて、それまでとはまったく違うやり方を取り入れたりもしたけど、結果が伴わなかった。「陸上を辞めよう」とは思わなかったけど、「逃げてしまいたい」という気持ちがありました。
 
そんなとき、成迫健児選手という6歳年下のライバルが現れたんです。彼は身長も高くて優等生タイプで、自分にないものを持っていた。じりじりと差が縮まって、ついに2006年の日本選手権で成迫選手に負けました。
 
そのとき、何かが「パリン」と砕けちったような感覚を味わった。メディアの注目が彼に集まる中、僕はすべて失って、メッキが削がれたような感覚だったけど、そのときにまだ失っていないもの、大事にすべき本質的なものがハッキリしたんです。
 
挫折があったからこそ、「自分とは何か?」を考えることができた
 
それまでは「こうありたい」という自己イメージと、社会から期待される自分のイメージは、そこまで乖離していなかった。
 
だからこそ、社会から期待されるイメージを守らなければならないと考えていたんです。けれども、僕が日本選手権で負けたとき、思いのほか多くの人が去っていった。でもそれって結局、すべて自分が勝手に「こうあらねば」と思い込んで、ひとりで苦しんでいただけだったんです。

波が過ぎ去っていくのを悲しがっている自分に気づいたとき、海面に浮かんでまた波を待つより、淡々と海の底で生きていこう。「自分の存在を証明しよう」というのを、いったん諦めてしまおうと思ったんです。
 
あれほど「自分の存在意義を証明したい」と願っていた僕が、なぜそれを諦めることができたのか。それは、とある本との出会いがきっかけでした。
 
世界陸上の翌年、スランプにあえいでいた僕は、トレーニングの拠点をアメリカ・サンフランシスコに移しました。けれどもコーチと考え方が合わず……。練習方法を模索していたんです。そのタイミングで父親が末期ガンに罹っていることもわかって、「生きるとは何か」といったようなことも考えざるを得なかった。
 
まだネット回線も今のように安定してはおらず、日本の活字や思想を渇望してたんです。そんなとき、ジャパンタウンにある紀伊國屋書店で見つけたのが、鈴木大拙の『日本的霊性』でした。


1946年に初版が発行された『日本的霊性』
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印象に残っているのは、「超個の人」という概念。
 
つまり、自分が考える自分というのは、「個己(自己)」でしかなくて、それが果たして「超個(本来の自己)」かどうかは疑わしいもの。かと言ってその本来の自己に辿り着くためには、自己から離れることはできない、というもの。
 
では、これまで自分がこだわってきた「自分の存在を証明する」ことで証明したかった「自分」ってどういうものだったんだろう……と考えるようになったんです。
 
よく、「自分との戦い」と言うけれど、果たして自分は無人島に流れ着いたとき、何かの達人になるために戦略を立てるかどうか、と考えると、そうではないな、と。やはり、他者がいるからこそ、「アイツがこうするなら、僕はこうしよう」とあれこれ考える。そういうことが向いているし、楽しいんですよね。だから僕の場合、ライバルの出現によって、やるべきことがクリアになったんです。

20代、「座右の銘」がコロコロ変わるくらいでもいい
 
「努力」というものを考えるうえで意識すべきなのは、「報酬をどこに置くか」ということです。スポーツ界において、いわゆる典型的な努力というのは、「今は苦しい思いをしているけど、未来には何らかの報酬があるはずなので、何とか耐えぬこう」というもの。未来に報酬を置いて、今はとにかく努力しつづけようということです。
 
その一方で、「努力そのものを娯楽化して、それを楽しむことを報酬にする」という考え方もある。どちらも重要な考え方ですが、それぞれにデメリットもあります。
 
前者の場合は「10年かけて自己ベストを出す」ようなことを目標にしていると、努力するばかりがメインになって、報酬がほとんど残らなくなってしまう。後者の場合、「楽しいこと」というものは飽きるものですから、継続的に努力することが難しくなってきます。
 
僕が考える理想的な努力は、このどちらともうまく織り交ぜてバランスを取ったものです。未来へ報酬を置いて、「とにかく今はがんばろう」と厳しい努力を耐えぬくには、勘違いでもいいからその努力自体が「楽しい」と思えることが大切です。
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文=大矢幸世 写真=小田駿一

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