本企画では、「Business Entrepreneurs(起業家)」「Social Entrepreneurs(社会起業家)」「The Arts(アート)」「Entertainment & Sports(エンターテイメント&スポーツ)」「Healthcare & Science(ヘルスケア&サイエンス)」の5つのカテゴリーを対象に、計30人のUNDER30を選出した。
選出にあたって、カテゴリーごとに第一線で活躍するOVER30を迎え、アドバイザリーボードを組織。彼らに選出を依頼した。
「Entertainment & Sports」部門のアドバイザリーボードのひとりには、元プロ陸上選手の為末大が就任。
400mハードル日本記録保持者の為末が世界陸上で銅メダルを獲ったのは、23歳のこと。その後も華々しい活躍を遂げてきた為末だが、意外にも20代は「絶頂とどん底を立て続けに経験した」試練の時代だったという。はたして、その心中はいかなるものだったのか。20代を振り返ってもらった。
為末大が館長を務める「新豊洲 Brillia ランニングスタジアム」にて
僕の存在を証明するためなら、ハードルでもなんでもよかった
20代の頃を振り返ってみると、競技生活まっただ中で、絶頂とどん底、そのどちらをも経験した日々でした。そもそも、僕のハードラー人生は敗北感から始まっているんです。
全日本中学校選手権で100m・200mの短距離走で2冠を獲得し、ジュニアオリンピックでは日本中学記録(当時)を更新しました。しかし、その後は伸び悩み、高校3年生の頃、ついに同級生に追いつかれた。そのときに初めて焦りを覚えたんです。
加えて、世界ジュニアで海外の選手と試合すると、まったく歯が立たない……。当時、日本の選手は準決勝にも残れない状況。僕も走ってみるものの、ただ走っているだけはツラくて。どうせなら1番になりたいじゃないですか。
どうすれば、僕はもっと上に行けるだろうか。そう考えたとき、浮かんできた選択肢が「ハードル」だったんです。それしかなかった。
今でもそうですが、僕はハードルのことが好きというわけではないんです。ただ、少なくとも僕に向いていた。あれこれ考えるのが好きなこと、厳しい練習に耐えられる根性があること、それなりに器用だったこと……。
自分の特性を考えると、ハードルほど向いている競技は他になかったと思っています。客観的に見たら、あまり好きでない競技をやり続けることは難しいと思うでしょうが、僕はあまり手段にこだわらない人間で。どちらからと言えば、自分自身を表現し、最大限に発揮できるかが大事だった。
その手段がハードルなのであれば、「やるしかない」と思えたんです。
2008年、北京五輪で男子400mハードルに挑む為末大
「自分が好きなこと」よりもむしろ「何らかの手段で自分の存在を証明したい」という思いのほうが、よっぽど強かった。なんでもよかったんです。もし歌がうまかったら、歌手でもよかったかもしれない。
僕は広島県で生まれ育って、「いつかは東京に行って偉い人になりたい」みたいなミーハー心が少なからずありました。
みんなが広島東洋カープやサンフレッチェ広島を応援している中で、陸上というマイナー競技を選んだからには、絶対に世界へ行かなければ、自分の存在は証明できない、と思ったんです。
23歳で味わった絶頂、そして挫折
だからこそ23歳のとき、世界陸上の400メートルハードルで銅メダルを獲れたことは大きな出来事でした。陸上選手としてのピークは人生の中で1、2度あるかないか。僕にとってはそれが2001年の世界陸上だったんです。
当時、日本選手で短距離のファイナリストになったのは山崎一彦さんと高野進さんくらいしかいなかった。決勝に残って、その3人目になりたい。メダルを獲りたいと強く願っていました。
当時は脚を踏み出せば身体ごと弾むような感覚で、自分の身体を思うようにコントロールできていました。だから、「メダルに届くんじゃないか」という感触があったんです。自分はどこまで行けるんだろう、どこまで速くなるかどうかを見てみたい……。その一心でした。
2001年、カナダ・エドモントンで開かれた世界陸上の男子400mハードルに出場。47秒89で日本新記録をマークし、五輪・世界選手権を通じて日本人初の短距離種目の銅メダルを獲得した
2001年の世界陸上で銅メダルを獲ってからしばらくして、僕はスランプに陥りました。急に周りから期待されるようになって、「つねに右肩上がりで記録を伸ばしていかなければならない」「練習に一貫性を持たせなければならない」と、自分自身にプレッシャーをかけてしまったんです。
また、インタビューで「次の目標は?」とか「座右の銘は?」と聞かれると、つい過剰に高い目標を掲げて、自分の言葉にがんじがらめになってしまった。陸上選手は日々刻々と変化するものなのに、「あるべき姿」に縛られて、義務感と一貫性に気を取られてしまった。自発性や自由をおろそかにして、自分のやりたいことができなくなってしまったんです。
一方で、僕は微妙に「有名人」になっていました。テレビ番組に呼ばれるようになって、そこそこチヤホヤされるようになった。世間の人にとってはなお「世界陸上のメダリスト」だったんです。