「さよなら、おっさん。」はどうでもいいです
井上くんはそのスーパーカジュアルな感性で、「(一緒に)やりたい人とやりたいことしかしない」と平然と言い放つ。
「クリエイティブというのは成果報酬、ユーザーが評価するものなんですよ。だから、やりたいと思ったら、まず相手にギブして、報酬はフィーだけでなく、レベニューシェアや株をもらうなど、いろいろな形で得ています。自分たちでフィー単価を設定すること自体がおこがましい」
この主張にはわたくしも激しく同意した。さらに井上くんはこうも続ける。
「ここでは、来る理由と出る理由を明確にしてもらっています。人は得てして出る理由を忘れがちなんです。基本は、ここで1回、クリエイティブをカタチにしたら卒業です。溜まり場ではない。いろんな場所に行けばいい。メンバーには、同じ価値観は求めません。いちばん大事にしたいのは、寛容さです。寛容さが根っこにある人が、流動的に動き回るのが理想なんです」
「ダイバーシティ&インクルーション! 寛容ささえ得れば、年齢も問わないんだ?」と水を向けると、はからずも、ちょうど炎上中のニュースメディアの広告について触れてくれた。
「あの『さよなら、おっさん。』というコピーは、どうでもいいです。あのメディアが宣言することに価値はあるけど、それについての周りのガヤが良くない。そんなこと言っている暇があったら、自分のプロダクトに集中しろよと言いたいですね」
これは、わが胸のもやもやとする霧を払拭する名回答。たぶん「港区おじさん」にはなれそうになく、すでに「おっさん」となっているかもしれない悶々としたわたくしに大きな安堵をもたらしてくれた。
「自分はずっと変わり続けていきたい。常に自己否定です。早く次の人間になりたい。そして、死ぬ理由を明確にしてから死にたい」という鮮烈なメッセージを繰り出す若き起業家との会話にわたくしは深く考えさせられた。
思えば、昭和の「核家族と終身雇用の会社」というふたつの安定した帰属集団が、構造的に弱体化したいまは、個人が集団に守られることなく、変化の激流に直にさらされる時代だ。ひと頃言われた「自分探し」から、個は「居場所探し」に向かっているのではないかとも感じる。
とはいえ、ひとつの「居場所」にしがみついて生きられるほど、安定した場所は得難いだろう。これまでの自分の得意や専門性が、この先も求められ続ける保証はどこにもない。いま若者たちが習得している知識やスキルは、明らかに時代の変化を反映しているはずで、それらを新たに学ぶことは可能性を広げることにもつながる。
ときにはZ世代にとっての「居場所」が、中年サラリーマンにとっての「リカレント教育」の場となりうることだってある。しかし、それには常に自分を変化させる勇気と行動力が必要だ。
先輩コピーライターの悲嘆を胸に刻みながら、われら「おっさん」かもしれない人間たちも、異世代のコワーキングスペースで新たな可能性を試してみたらと思う。「人生100年時代」を生ききる戦略とは、複数の「居場所」に所属するというポートフォリオの分散にあるのではないだろうか。
連載:ネーミングが世界をつくる
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