女優・萬田久子が初めて明かす、「柳井正に愛された経営者」の肖像


ジェットコースター

萬田:夜中に、香港のリッキーから電話があったときのことは覚えています。私がベッドで電話に出ると、彼はこう言いました。

「人間って、こんなに震えるんだな」
 
やばい、やばい、と彼が口にしていたのは知っていました。「電話が鳴るたびに、トイレに駆け込んで、戻す」とも言っていました。ただ、私は酔っていたせいか、「あ、そうなの」と言っていたようです。私が深刻になっても仕方がないし、そういうとき、「よし、面倒みるか」というのが私の性格です。

あとになって彼から「キミがあのとき能天気でよかった。一緒にどん底に陥らずに済んだ」と言われました。
 
会社を清算するにあたり、彼は従業員の給与を確保するために奔走していました。私もすぐに香港に出かけて行き、一緒に自宅の整理をしました。売却するものと、思い出の食器や調度品を分けたりしながら、「夜逃げって、こういう感じなのかな」と思ったものです。

すごいジェットコースターに乗っちゃったな、でも、あたふたしても仕方がないし、どうせ最初は何にもなかったのだから、と思っていました。
 
日本に戻ってきてから、彼は引きこもりました。食事は「喉を通らないし、食べても戻す」と言う。ずっと家にいるので、「通信教育で習字でもやろうかな」と、写経をしたりしていました。1カ月で8kg痩せたみたいです。

「たまには外に食べにいかない?」と誘うと、こう言うんです。「人にご馳走できないのは、つまらないんだ」と。ああ、そうか、彼らしいなと思いました。「おもてなしの舞台」をつくって人を喜ばせることが好きなんです。彼自身は食通ではなく、母のつくるお茶漬けなど簡単なものが好きでした。
 
会社を清算する前、ハンプトンの別荘で「親友のアンドリュー・ローゼンがこんなことを始めるんだ」とコピーを見せてくれたことがあります。新しいブランド「セオリー」のデザインでした。すごくシンプルでいいなと思ったら、あっと言う間にアメリカでブレイクして。さすがでしたね。

97年にアメリカでセオリーが創業。翌98年、佐々木の会社が倒産したころ、日本ではユニクロのフリースが大ブームとなっていた。2000年、佐々木はセオリーとライセンス契約を結び、翌年には4185億円を売り上げ、大ヒットとなった。03年、ファーストリテイリングは佐々木とともに米セオリーを買収し、04年には佐々木のリンクセオリーを傘下に置いた。

萬田:リッキーは50代で柳井さんと出会い、株を買ってもらい、柳井さんの傘下に入りました。彼は子どもの頃からずっと脚光を浴びてきた人ですから、柳井さんの番頭のような立場になったのには相当な覚悟があったのだと思います。悔しさの半面、「経営者として超せない存在」と、柳井さんの下で第二の美学を磨いていこうと決心したようです。
 
彼は意見をずばずば言うし、柳井さんも簡単に曲げる人ではありません。意見が衝突して彼は湿疹が出たことがありました。私が「花粉症でしょう」と口を出しても、「柳井病だ、皮膚科に行く」と言う。翌日、柳井さんも湿疹が出て「佐々木病だ」と、二人とも同じ病院に通っていました。
 
リッキーと柳井さんが二人きりでクリスマスを過ごしたこともありました。二人でディナーに行くというんです。私も柳井さんの奥さんも呼ばれてない。一体、どういうクリスマスだったのか、覗いてみたかったですね。
 
彼は、ベンツやマイバッハに乗っていましたが、柳井さんがそうした華やかなことに興味がないのを意識して、ゴルフに行くときは、ゴルフ場の手前に車を停めていたそうです。ゴルフバッグを抱えて歩きながら「俺、何やってんだろ」って。それを聞いて柳井さんは笑っていたそうです。
 
彼は柳井さんのことをとても尊敬していました。性格が違う二人だからこそ、お互いに触発されていたのだと思います。
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文=藤吉雅春 写真=杉田容子

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