社会人になって発揮したリーダーシップ力
ソニーに入社して1年経ち、ジュネーブに留学して勉強をしていくうちに自己が確立されていった。ますますリーダーシップの意識が芽生えていった。
経済学者だった父の影響もあって、経済の理論をビジネスに活かしたいと思うようになっていた。社員の8割が理系で、文系が2割もいないソニー本社の環境では、理系をマネジメントしてリーダーシップを発揮するのがいいと、状況から自分なりに判断した。
そして業績があまりよくなかったオーディオ事業部を立て直すため事業部部長になりたいと、当時副社長だった岩間さんに申し出た。時代はちょうど、アナログオーディオであるレコードやカセットテープからデジタルに移行する技術の変換期だった。
NHK技研出身でデジタルオーディオ技術の草分け的人物とされる中島平太郎さんが、1971年にソニーに技術研究所長として入社。その当時副社長だった大賀さんは、レコードに代わるものとしてCDの企画開発をオランダのフィリップスと共同で行うことを決め、私にCDプレイヤーの商品化が任された。そして1982年、CDP-101が発売された。
デジタルという新しい技術がオーディオ事業部を活性化させた。挑戦したマネジメント業務が、時代の後押しもあって大きな成果を残せたことは、本当にラッキーだった。
その後、コンピューター事業部長、レーザーディスク事業部を経験し、開発エンジニア・企画設計、量産設計、製造現場と、文系の私は多くの人から技術まわりのことを学び、考える機会に恵まれた。ビデオ事業部では、ソニーが先行したベータマックスをVHSのシステムに切り替える仕事を担当することになり、松下、東芝、日立、ビクターなど、他メーカーとも親しくさせていただいた。
しかし、いつも順風満帆とはいかない。チャレンジしては失敗し、異動させられるということも何度か繰り返した。それでも、常に挑戦することを諦めなかった。「失敗は成功のもと」で、たくさんの成功の種が詰まっている。人生は自分探しの冒険だ。
ソニーであらゆる業務に携わっているうちに、物事の分析や仮説、戦略を立てるのが得意だという自覚が湧いてきた。自分が立てた仮説を裏付けする目的で社内シンクタンクをつくり、レポートを作成する。実行すべきものは意見を突き通した。かなり目立つ行動だと思うが、常に“ソニーのため”を第一に考え、俯瞰的なビジョンで戦略を立てていった。
そうした行動を周りはよく見ていた。特に経営陣は、この才能に気づいてくれた。才能の気付きには、主観と客観の両面が必要なのだと思う。恩師が「微視と巨視でものごとを見ることが必要だ」と言っていたことにも通じる。
人生のビジョンは、ある意味で俯瞰だ。巨視ができない人にはビジョンを描くことはできない。仕事も人生も、横から縦から様々な角度から見なければいけないし、時系列にも見なければいけない。俯瞰的であるが、それは決して抽象的ではない。