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2018.06.24 17:00

昭和と阪急ブレーブスと「全米球場跡地巡り」

ニューヨーク、ブルックリンのエベッツ・フィールドの跡地(Raymond Boyd via getty images)

ニューヨーク、ブルックリンのエベッツ・フィールドの跡地(Raymond Boyd via getty images)

僕は阪急ブレーブスが初優勝した年に大阪で産声を上げた。子供の頃から阪急ファンだった父親は、僕を命名するにあたり、当時の監督、西本幸雄氏の名前の一字を借りた。母親が飼っていた黒猫はバルボンという名前だった。かつて阪急でプレイしたキューバ人内野手ロベルト・バルボンのことだ。

そんな家庭で育った僕は、物心がついた頃にはすでに阪急ファンだった。友達はみんな巨人か阪神だったが、僕はこの華やかさは欠けるが、実力がある「いぶし銀軍団」の阪急が大好きだった。

父親と一緒に西宮球場、大阪球場、日生球場、藤井寺球場に通った。既に取り壊された昭和の球場だ。最寄りの駅から球場への道のりが大好きで、野球ファンで賑わう道を歩いていくと、遠くに照明塔の明かりが見え、それが徐々に近づいてくることに興奮した。場内に入り、階段を登っていくと、小学生の僕にとても大きく感じたフィールドが目の前にドカーンと広がる。その瞬間がたまらなかった。

僕は、アメリカに14年間、東南アジアに8年間駐在した。人生の半分近くを海外で過ごし、毎日のように外国人と握手をする機会があった。人生で初めて外国人と握手をしたのは、阪急が広島カープを破って初めて日本一になった1975年の祝勝会の時。僕は当時8歳で、その相手はベネズエラ出身のロベルト・マルカーノだった。

少年時代は、近所の友達と自宅前や近所の公園、河川敷で毎日のように野球を楽しんだ。僕は当然、阪急の剛速球投手・山口高志になりきり、彼の豪快なフォームをそっくりに真似して、力いっぱい投げていた。幼稚園児の頃から、近所の少年野球チームでプレイしたが、残念ながら進学した中学校と高校には野球部がなかった。

しかし、父親から譲り受けた野球への愛情を忘れることはなく、社会人になってから草野球チームでプレイするようになった。海外に駐在しても続け、週末の草野球を通じて世界各地にたくさんの大切な仲間ができた。やがて草野球は僕の生きがいとなり、生活の一部となった。

僕がロサンゼルスに赴任して間もなく、父親は55歳の若さで他界した。その後、僕はニューヨーク駐在中に長男を授かった。父親から譲り受けた野球への愛情を引き継ぎ、今では彼がリトルリーグの試合で活躍する姿を見るのが生きがいに加わった。

球場を訪れメジャー・リーグの虜になった

本場のメジャー・リーグの試合を初めて観戦したのは、初めて海外赴任した1991年のこと。開幕間もない4月23日、ロサンゼルスのドジャー・スタジアムで行われたドジャース対ブレーブス戦。

生まれて初めて見る本場のボールパークは壮大で、どこに駐めたか覚えられないほど駐車場も広かった。青空が爽快で、天然芝が美しかった。日米の観戦の方法や応援スタイルの違いにも驚いたのも覚えている。

アメリカのボールパークは、家族や友人とピクニックを楽しむ場であり、社交の場でもある。観客一人ひとりが生き生きしている、自由な雰囲気がたまらなかった。そして、僕はメジャー・リーグの虜になった。

この試合には、後に野球殿堂入りするゲイリー・カーター、エディ・マレー、トム・グラビン、それにフットボールと二足の草鞋を履いていたディオン・サンダースも出場していたが、試合の内容よりも、生まれて初めて足を踏み入れたボールパークの印象が強く残っている。
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文=香里幸広

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