ビジネス

2018.06.14 11:30

異色の直接金融「ドーガン」のカネ、ヒト、情け

ドーガン社長の森大介


ドーガンの前身、「コア・コンピタンス九州」は森ら4人が雑居ビルの一室で始めた。最初の案件は九州の老舗企業、浦島海苔。負債総額約133億円と初めてにしては巨額の案件だ。仕事は地銀など債権者391人の協力を取り付けて、再生への道のりをつけることだった。
 
債権者は当然、殺気立っている。破綻した浦島海苔が深々と頭を下げても罵声が飛び交って収拾がつかなくなるのは目に見えていた。
 
代わりに出ていった森は頭を下げ、「必ず再生できます」と訴えた。事業が継続できなければ、地元の経済に与える影響は計り知れない。債権者も黙って再生計画に耳を傾けた。最終的に製造販売部門を分社化して製塩会社最大手の会社に承継させることができた。
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当時、中小企業相手のM&Aや企業再生のアドバイザリーを九州で手がけている会社はほぼ皆無。この案件で地銀にも便利な存在として知られるようになり、次の仕事の依頼が舞い込むようになる。

まともに眠れなかった2年間

企業再生を柱に順調に業績を伸ばしていたドーガンだが、08年のリーマンショックでターニングポイントを迎えた。
 
日本全国、順調だった会社が急に資金繰りに困るようになり、再生の相談が急増した時期だ。森は「全て引き受けてあげればいいんじゃないか」とさえ思った。これまで関わった企業の多くは業績が安定している。自分たちには会社を見る目があると過信していた。
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ほどなくして現金がショートした投資先から逼迫した相談が来るようになる。「お金を出してください」と土下座する社長もいた。残高を見ると2週間後の月末はもう乗り越えられない。従業員の給料をカットし、支払いと返済を止めるか。会社を清算してしまうか。ファンドから金を出すこともできるが、投資家への責任もある。常に究極の選択に迫られた。
 
社内では明るく振る舞っていた森だが、2年近く眠れない日々を過ごした。東京のファンドなら投資先を売って、自分たちは次の案件を探すこともできるかもしれない。

「僕たちは逃げられないんです。『あいつら、結局逃げた』って言われる。経営支援のスタッフを送ってやり続けないといけなかった。地域でやるということは、働いている人もその家庭も知っている。いい加減にはできませんでした」。
 
レストランや八百屋、どんな中小企業も経営は難しい。どんなに学歴や職歴があっても歯が立たないことがある。「身の丈にあった、自分たちができることをやらないといけない」と気づくことができた。
 
リーマンショックの後処理が終わった頃、森に部下の林龍平から相談があった。「再生だけでなく、新しいことを外に向かってしたらどうか」。暗い空気を振り切るように、ベンチャー投資を本格的に始めた。

「ドーガンがあったことも福岡で会社を設立した理由の一つです」と話すのは、AIや機械学習のプラットフォーム構築などを手がけるグルーヴノーツの最首英裕社長。
 
東京でシステム開発の会社を上場させた経験もある最首は、福岡の環境に惚れ込んで移住して来た。ドーガンの出資先の企業経営者が集まる気さくな勉強会がある。最首によれば、同じ九州、という雰囲気があり、東京で聞けない本音が聞けるという。

ドーガンは17年1月にベンチャー投資を専門的に行う子会社、ドーガン・ベータを設立。林が社長に就いた。最首は「これもドーガンらしいですよね。個人の欲よりもみんなが良くなることを目指している」と指摘する。
 
林は06年にドーガンが初めて設立した投資ファンドでベンチャー企業を担当して以来、10年以上にわたって福岡のベンチャーコミュニティで人脈と情報網を築いてきた。このベンチャー投資がドーガンの苦しい時代を支え、後の事業拡大に貢献した。

例えば、訪問特化型の調剤薬局チェーンを経営するヒューガファーマシー。全国を先駆けた独自のモデルで、同社は関東に支店を広げるまで成長した。出資を検討していた14年、林は白衣を着て、薬剤師と一緒に薬の処方を待つ患者の自宅訪問に同行する。社長の黒木哲史は「うちのビジネスモデルは、実際に見てもらうのが一番わかる。とにかく丁寧に話を聞いてくれた」と林を評価する。
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文=成相通子 写真=小田駿一

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