レーガンとトランプ 「壁」を巡る最大の違い

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これと対照的にロナルド・レーガンは、旧ソ連で出国を拒否された「リフューズニク」と呼ばれる人々や、ベルリンの壁を越えたいと思っていた東ドイツの国民に語りかけた。1960年代初め、旧ソ連のユダヤ人(後にはキリスト教徒も)は、自由に宗教を信仰でき、信仰による差別のない生活を夢見て、国外脱出を試みた。

レーガンは1988年5月のモスクワ訪問に際し、リフューズニクたちと面会しただけでなく、ソ連は世界人権宣言に従い、国を去ることを望む人にはそうさせるべきだと演説し、ソ連の怒りを買った。米紙ワシントン・ポストによると、リフューズニクたちはレーガンが自分たちと会うことを決めたことに深く感銘を受けたと語った。

東ドイツ政権がベルリンの壁の建設を開始したのは1961年8月。それまでの数カ月間で何千人ものベルリン市民が逃げ出したことを恥ずべきことと感じた共産主義政権が、東ドイツ国民の移動を止めるために作ったものだった。1989年11月のベルリンの壁崩壊までの間に、壁を越えたり迂回したりしようとした170人以上が東ドイツ兵に殺された。

レーガンは1987年6月12日に、ベルリンのブランデンブルク門で劇的なスピーチを行った。「私の背後にはこの街の自由な区域を取り囲む壁がそびえている。欧州全体を分断する巨大な障壁システムの一部だ」と述べ、次のように続けた。

「この門が閉ざされている限り、この壁の傷跡が消えない限り、これはドイツだけの問題ではなく、全人類の自由に関する問題だ。(…)ゴルバチョフ氏、この門を開けなさい!ゴルバチョフ氏、この壁を壊しなさい!」
レーガンは人々の移住を強く支持し、個人の自由を非常に重視していた。彼は米国を「丘の上の輝く街」だと考えていた。大統領退任演説でレーガンは、次のように語った。

「私は政治家として活動してきた間ずっと、輝く街について語ってきたが、この言葉で自分の考えをきちんと伝えられたかどうか分からない。私の心の中でそれは、海にも強風にも負けない岩の上に建てられた、高く立派にそびえる街だ。神の栄光を受け、あらゆる人々が調和と平和の中に協力して暮らしている、貿易と創造性に満ちた自由な港を持つ街だ」。

ロナルド・レーガンは次のようにスピーチを締めくくった。「街に壁が必要ならば、その壁には扉がついている。こちら側に来る意思と心を持った人になら、誰にでも開かれている扉だ」。ドナルド・トランプは、大きく偉大な壁を作ることで、人々を締め出そうとしている。トランプとレーガンの間に、これ以上の差はないだろう。

編集=遠藤宗生

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