考えてみれば、人類の長い歴史は常に太陽とともにあった。古代の人々は太陽を神と崇め、太陽と月の運行をもとに古代遺跡を建設したし、世界各地の神話では光と闇の二項対立が定番であることもよく知られている。
ところがいつしか太陽は、人間にとって本質的な存在ではなくなった。人工的につくりだされたエネルギーが太陽に取って代わり、人々は季節とともに変化する太陽の動きに神秘性を見出すこともなくなってしまった。
空に太陽があることを誰もが当たり前にとらえ、もはやそのありがたみすら忘れてしまった社会。そんな現代社会を脱け出して数カ月に及ぶ暗黒世界の旅をした後、最初に昇る太陽を見たとき、人は何を思うのか。そこで初めて、光と闇の何たるかを知ることができるのではないか。角幡の冒険には、そんな問いが込められていた。
だが、そんな壮大な問いかけを秘めた旅とはいえ、黒く塗り込めたような本物の闇の中へと向かおうというのである。闇に潜むのは、クレバスの深い裂け目かもしれないし、狼の群れかもしれない。
想像を絶するような困難が待ち構えているのは素人にだってわかる。しかも相棒は愛犬ウヤミリックのみ。犬は橇(そり)を引くだけでなく番犬としても役に立つ不可欠なパートナーだというが、心細さはいかんともしがたいものがある。
暗闇の中で角幡はさまざまな体験をする。
なにしろ極夜の世界では視覚に頼ることができない。足裏の感覚で距離感をつかもうとするが、地面が上っているのか下っているのかさえわからなくなってしまう。闇の中で自分の居場所がわからなくなると、単に空間的な存立基盤を失うだけではなく、これからどこへ向かうのか、自分の将来もわからなくなり、時間的な存立基盤も同時に失うという。つまり闇は、人間から未来を奪うのだ。
長く厳しい旅の果て、ついに昇る太陽と遭遇した瞬間の描写には、圧倒された。本書の冒頭で、角幡は娘の出産の場面を描いているのだが、この世に生み出された命と、世界を隈なく照らす光がここで重ね合わされる。
なぜ人類は光と闇を対比させてきたか。
永遠に続くかのような闇を潜り抜け、巨大な火の玉を思わせる太陽の前に立った時、角幡は人類の神話的思考の秘密に触れる。ノンフィクションを読んでいて、これほど荘厳な場面に立ち会ったのは初めてだ。まるで角幡が神話の主人公で、今回の極夜行がひとつの英雄譚であるかのように思える。
神話学者のジョーゼフ・キャンベルは『千の顔を持つ英雄』(ハヤカワ文庫)の中で、世界各地の神話にみられる英雄の冒険譚の特徴をまとめているが、もっとも重要な要素をひとつだけ取り出すなら、それは「境界を越えて、戻って来る」ということになるだろう。
現代はかつてのような冒険を行うことが困難な時代だ。濁流の川下りや洞窟への潜入は、ラフティングやケイビングの名でアウトドアスポーツのカテゴリーのひとつとなり、エベレスト登山ですらもいまやマニュアル化されているという。
そんな現代におけるあるべき冒険の姿を、角幡は“脱システムの冒険”と呼ぶ。あなたが当たり前だと思っている世界の外側へと出てみること。システムの境界を越えること。それこそが現代の冒険なのだ。
わたしたちの先祖のホモ・サピエンスは、約10万年前にアフリカ大地溝帯を飛び出して世界各地へと冒険の旅に出たとされる。本書を読むと無性に旅に出たくなるのは、もしかしたらぼくらのDNAに刻まれた“脱システムの冒険”の記憶のせいかもしれない。
読んだら読みたくなる書評連載「本は自己投資!」
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