都会から田舎へ移住して気づいた「時間」の感覚

5月になって田んぼに水が入ると、ようやく「また1年が始まった」という感覚をおぼえるようになった。

東京・神楽坂から、長野・富士見町に移住をして4年ほど経つが、振り返って自分の中で一番変化があったのは、時間についての感覚だと思う。

例えば、1年の始まりの感覚について。1年の始まりは1月1日でしょ、と思われるかもしれないが、どうも私には腑に落ちない。

正直なところ、お正月は「カレンダーがお正月になるからお正月」と無理やり言い聞かせているようで、クリスマスから年末、そして年始……と、時計を早送りする感覚についていけない。かといって、旧正月はまったく馴染みがない。4月になって子どもたちが進級すると、自分の中に少し「あたらしい」風は吹くけれども、会社をやめてフリーランスになった身としては、自分ごととして1年が始まる感覚は持てない。

「また1年が始まる」と感じさせるもの

では、私にとって腑に落ちる1年の始まりはいつなのか。あくまで個人的な感覚だが、5月になって田んぼに水が入ると、ようやく「また1年が始まった」という感覚をおぼえるようになったのである。

春になって芽吹き、桜が咲き、やっと春らしくなってきたなという春の動きの集大成が、田んぼに水を貼ることにあるような気がしてならない。そして水が反射する景色は、いつ見ても美しく、また命がめぐることを予感させてくれる。

これからまた、カエルの声に包まれて眠る季節がやってくるのだ。その安堵感が、また始まるという感覚を私におぼえさせるのだ。

もちろん移住前は、そういった感覚はなかった。時間はあっという間に過ぎていく。時間とは時計が刻むものであって、その限られた時間の中で、いかに効率よく仕事をするか、家事をするか、どうしたら上手に時間を活用できるかを試行錯誤していた。

よくよく考えてみると、お金と同じなのではないだろうか。お金も時間も、消費のされかたが問われていた。つまり時間も、消費の対象であるということになるのではないか。

田舎だからお金も時間も消費しないというわけではないが、あっという間に過ぎていく時間とは別に、田んぼや、虫や花、木々といったさまざまな自然が絶対的に目の前にある。忙しくないわけではない。むしろ野良仕事もたくさんあって忙しい。それでも、日々揺らぎながらも緩やかに進んでいく、自然という尺度の時間が、ここにはある。

新たに得た「時間感覚」

そしてもう一つ、移住してから得た感覚がある。それは、時間が失われていくのではなく、生まれていくという感覚である。田舎は、突然の来客が多すぎるし、どこに行っても知っている誰かと会う確率が高すぎるのだが、そうした時間によって、あらたな関係性がつくられていく。

おそらくは、そもそも関係性こそが時間なのである。仕事の用事でもないし、もっと言うと用事はないのかもしれない。足の向くまま、気の向くまま。どうしてるかな? と誰かを気にかけて「いま大丈夫?」と聞く、あるいは聞かれたかれたその先に、あたらしい時間が生まれていく。

どんな時間の感覚に身を委ねるのか。

移住後に、ようやく得ることができたこの感覚を、大切にしたいと思う。

連載:里山に住む「ミニマリスト」のDIY的暮らし方
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文・写真=増村江利子

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