70カ国以上から、家庭環境も宗教観も異なる高校生たちが集まる軽井沢の学び舎は、国内外から多くの方々が見学や取材にいらっしゃる場所になった。そしてほぼ毎回聞かれるのは、「こういう学校をもう一校つくらないんですか?」という問いである。今回はそれに答えるにあたり日本の教育に思うことを掘り下げてみたい。
1. 多様性に乏しい日本の教育
実は私は、我々のような学校や同じようなモデルが、国内にたくさんできることがいいとも、可能であるとも思っていない。真の多様性を実現するために、生徒の7割に奨学金を出すには莫大な資金が必要になり、私たちも毎年の寄付集めのために全国を奔走する日々である。
今年度から、悲願であったユナイテッド・ワールド・カレッジ(UWC)の加盟校となったことで、世界160カ国のUWC国内委員会を支える3000名超のボランティアの皆さんが生徒募集と選抜を担ってくれているが、これら国内委員会のキャパシティにも限界があり、今のところ加盟校は1カ国あたり一校に限られている。
そしてそもそも、日本の教育界に必要なのは、同じような教育モデルの「焼き増し」が増えることではなく、生徒の個性や社会のニーズと同じくらい、多様な教育の選択肢の幅そのものだと、私は考える。
現在の日本の教育は、これだけの人数を抱える国家としては他に例がないくらい、平均的に大勢の基礎学力を上げることには長けている。OECDのProgramme for International Student Assessment(PISA)テストの結果が示しているように。しかし、大勢を平均的に伸ばそうとすると、どうしても教育は画一的になる。
日本が本当に「一億人総活躍」を目指すのであれば、やるべきことは、多種多様な個性を活かすことである。しかし、大勢の様々な個性の子達が集まる学校で、全ての個性に対応することはなかなか難しい。むしろ、学校ごとにもっと特徴を出すことを許容し、その特徴に惹かれて集まってくる生徒たちの個性に相応しい教育をしていくほうが、現実的に感じるのは私だけだろうか。そしてそこにこそ、私学の存在意義もあるのではないかと思う。
2. 「学ぶべきこと」を決めるのは誰か
日本の学校で教えられる内容を規定しているのが、学習指導要領である。文科省のウェブサイトによれば、「全国のどの地域で教育を受けても、一定の水準の教育を受けられるようにするため、文部科学省では、学校教育法等に基づき、各学校で教育課程(カリキュラム)を編成する際の基準を定めています。これを『学習指導要領』といいます」とある。
これは非常に説得力のある存在理由である。個性と多様性という名のもと、誰でも彼でも好き勝手なことを教える学校を設立できるようになるのでは、確かに混乱しそうだ。
しかし、本来こうした“基準”であったはずの学習指導要領は、「小学校、中学校、高等学校等ごとに、それぞれの教科等の目標や大まかな教育内容を定めています。また、これとは別に、学校教育法施行規則で、例えば小・中学校の教科等の年間の標準授業時数等が定められています」と文科省のウェブサイトにあるように、昨今では、教科ごとの時間数まで規定するようになっている。