Close

PICK UP

世界38カ国、800万人が愛読する経済誌の日本版

大地の芸術祭では、里山の自然とアート作品が融合する。「たくさんの失われた窓のために」(内海昭子) 撮影:倉谷拓朴

「地域経済圏」を特集した『Forbes JAPAN』2018年6月号にて、新潟が誇る一大イベント「大地の芸術祭 越後妻有(えちごつまり)アートトリエンナーレ」について熱弁をふるってくれた、アートディレクター・北川フラム。

2000年の初回開催より彼が総合ディレクターを務め、3年に一度催される「大地の芸術祭」は、地域おこしに芸術祭が寄与するというフォーマットの先駆的例として、そしてその雛形として、多くの後進に影響を及ぼしてきた。

一方で、ここ数年、全国で乱立する芸術祭ブームにかんしては、批判的な意見も散見されるようになってきている。それらに対する率直な疑問もぶつけたインタビューを、ここにディレクターズカット版としてお届けする。

美術と経済の本来の意味とはなにか。そしていま、なぜこの時代に旅や観光が必要なのか──“原点”を見つめる北川の言葉から、「地域経済圏」のあるべき姿を見つめ直してみよう。


インタビューは北川が代表を務める「ART FRONT GALLERY」のオフィスにて行われた。


──今年2018年夏の開催で第7回を数える「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」ですが、前回、2015年開催時の来場者は51万690人、経済効果(推計)にして50億8900万円。国内外のアーティストが、地域の棚田や空き家を活用して制作し、期間中は100を超える集落に美術品が点在するという大きな芸術祭に発展しました。あらためて振り返って、どのような思いを抱かれますか。

越後妻有は豪雪であることもあって、非常に厳しい地域です。そしてぼくがこの地に足を踏み入れた1990年代半ばは、日本全体の自治体の合併政策が進み、越後妻有のような「効率の悪い」地域を切り捨てていく勢いが増していた時期でした。そうした時代の流れが直撃している地方だったわけです。

しかし、この地に生き、これからもこの場所で頑張るしかない人たちにとって、「効率が悪い」と、都市を中心にした価値観で切り捨てられちゃたまらないですよね。山の上まで田んぼをつくり、日本有数の米どころとして人々を文字通り養ってきたにもかかわらず、瞬間的な価値観で切り捨てるのはどうなのか、と思ったわけです。

──全国的に市町村の合併施策が進む「平成の大合併」前夜の状況下、それでも活路を開こうと、新潟県は1994年から「ニューにいがた里創プラン」というソフト重視の地域振興政策を進めていました。そこで越後妻有のエリアが手を挙げ、ヒントを得るべく声をかけられたのが北川さんでした。

そこに生きてきた人たちが、東京に象徴される最先端の価値観にさらされるなかで、何周か遅れている」という意識になっていたわけです。それはたまらないし、それまで頑張ってきたことに誇りをもたないとどうしようもないだろう、と感じました。

ぼくにとって、地域づくり、あるいは地域おこしや地域の活性化ということの何よりの意義は、この「誇りをもつこと」にあります。そのために、ぼくが専門としている美術が役に立たないだろうか、と思ったのが最初の出発点です。

──あらためて、なぜ「美術」なのでしょう。

美術は本来、その時代における大変な課題や矛盾を、自然と文明・人間の関係性において表現する「技術」なんです。いまの現代美術の一部は大きな金融商品になってしまっていますが、もともと美術というのは、本当にやむにやまれない自然との関係性のようなことを表現する技術である──ぼくはずっとそう考えてきています。アルタミラの洞窟壁画(編註:スペイン北部、旧石器時代末期に動物を描いた、ユネスコ世界遺産の壁画)が象徴的かもしれません。必死になって獣を獲って、食べて……その大変さと祈りが刻印されています。

マーケティングな思想では、たとえばそこに、アルファベットのAからZのように26人の人間がいたら、足して割って、NやMあたりの真ん中にいる人たちを「これが人間だ」と言うわけです。しかし、本当は「とんでもないA」や「しょうもないZ」がいるんですよ。本質的に美術というのは、いま74億人の人類がいるとしたら、その一人ひとりの生理の表れなんです。その一人ひとり違う人間が社会を築き、生きていく現実の大変さや、その土地がもっているものを明らかにし、表現するのが、いま美術が面白がられている理由だと思っています。

文=宮田文久 写真=小田駿一

記事が気に入ったら
いいね!しよう

LIKE @Forbesjapan

Forbesjapanを
フォローしよう

FOLLOW @Forbesjapan

あなたにおすすめ

合わせて読みたい