電撃的な社長退任が発表された3日後、インタビューに応じたみずほフィナンシャルグループ社長(当時)の佐藤康博。時折はにかみながら、42年におよぶ銀行マンとしてのキャリアを振り返りはじめた。
当時、佐藤が担当していた企業のメインバンクは他行だった。その牙城を何とか崩せないかと頭を悩ませていたところ思いついたのが、隣の部が担当している経営危機にあった企業とのM&A。ファイナンスを実行できれば、その経営危機にある企業が復活する足掛かりとなるとともに、自身の担当企業のメインバンクの座を奪えるはず──。
「仕掛けたところ、横紙破りされたと感じた隣の部の部長にひどく怒られ、これで私のサラリーマン人生は終わったなと思いました。最終的に、当時所属していた部の部長が『おまえのやっていることは正しい』と守ってくれた。若いころは出る杭の代表でしたが、のびのび育ててくれました。感謝しています」
2000年、第一勧銀・富士銀・興銀の3行は経営統合し、みずほが誕生した。その後、佐藤は11年にみずほFG社長に就任する。
トップに立っても、出る杭であろうとする姿勢は変えていない。象徴的なのは、13年、みずほ銀行で起きた反社会的勢力への融資にかかわる対応だ。佐藤は記者会見や国会参考人招致等に追われながらも、頭の中で“真因”の分析とその対応策について考え続けていた。
「過去のシステムトラブルを含めてみずほで問題が続いたのは、組織の中に本質的な原因があるからではないか。当時は統合前の旧3行を引きずり、お互いに干渉しない雰囲気がまだ残っていた。過去のレガシーを払拭しないと、新しいスタートを切ることはできない。自分に与えられた“宿命”と考えました」
負の遺産を清算するために選んだのは、みずほをメガバンク初の委員会設置会社にすることだった。委員会設置会社は指名、監査、報酬の3つの委員会からなり、各委員会の委員は過半数が社外取締役でなければならない。それだけでもガバナンスは変わるだろう。しかし、佐藤は思い切って指名委員会と報酬委員会の委員全員を社外取締役にした。自分のクビを完全に社外取締役に預けたのだ。
この一手の正しさは、後のメガバンクの動向が証明している。みずほFGの大胆な改革を見て、他行も委員会設置会社へと移行。メガバンクのガバナンスを変える先鞭をつけたのは、まさしく佐藤だった。
保守的といわれる業界で、なぜ前例のないことに取り組めたか。本人は「根底には、若いときに傾注した唯物史観がある」と自己分析する。