片野圭二は1984年に上智大学理工学部を卒業後、電子部品メーカーとして有名なアルプス電気に就職した。片野がいた盛岡工場は、単に部品の製造を請け負う工場ではなく、企画・設計から製造までを一括して担う独立採算の事業所であり、プリンター製造では国内でトップクラスの実績を誇っていた。
実は、盛岡工場は、部品メーカーから脱却して総合的な物作り企業へと発展を遂げる、挑戦の拠点として位置づけられていたのである。この進取性に富んだ空気の中で、片野は大学や官庁と連携し、社内ベンチャー的な動きをしていた。
盛岡工場のプリンター事業部は、熱転写方式という当時としては画期的な印字法を開発し、社に大きな利益をもたらした。さらに、さまざまなメーカーにワープロ用のプリンターユニットを提供し、自社ブランド製品を製造するまでに至った。つまり、アルプス電気の高いプリンター技術は、本社ではなく、盛岡工場が独自に開発したものだったのである。
しかし、2002年盛岡工場は閉鎖された。これは盛岡市民にとって降って湧いたような大事件だった。多くの人が、なぜだと首を傾げた。片野によれば、創業者の息子があらたに社長の椅子に座ったことで、会社の空気が一変したからだという。
工場閉鎖が決まると片野は、自分の会社を起こし、アルプス電気で培った技術で新しいプリンターを製品化するプランを胸に、迷いなく辞表を出した。片野は盛岡に残った。いわて産業振興センターの小山康文は当時を振り返り、「よく残ってくれたと思いました。あれだけのネットワークを持つ人だから、どこかの大学の教員になるのかなと思っていたんですよ」と言う。
小山は、スタートアップにかかる費用を「経済産業省が、地域新生コンソーシアム研究開発事業というものを募集しているので、この補助金に申し込んだらどうだろうか」と提案し、岩手大学地域共同研究センターの一室に片野の机を用意した。
「ただ、申請者にはなんらかの肩書が必要だった。でも、当時の片野さんは一個人にすぎず、なんの身分もありませんでした。そこで僕が“いわて産業振興センターの研究員”という肩書をひねり出したんですよ」。申請は通り、アイカムス・ラボが設立された。
いよいよ、携帯電話につながる新型プリンター「プリンパクト」を満を持してリリースすることになる。
ところが、プリンパクトはヒットするどころか話題にもならなかった。片野は「性能にばかり囚われて、その性能が消費者にとってどのような場面で活用されるのかがイメージできていなかった」と反省する。
当座の資金を食い潰した片野は、フューチャーベンチャーキャピタルのファンドマネジャー小川淳を訪ねた。この投資ファンドからは、プリンパクトの事業に対してすでにいくばくかの資金提供を受けていた。しかし片野は、プリンパクトの失敗をあっさり認めて見切りをつけると、新たな事業戦略を説明した。
当初の事業計画に失敗し、今度は別案件で投資を求めるのだから、虫のいい話ではある。片野の説明を聞き終わると、小川は一言こう聞いた。「で、その計画にはいくら必要なんですか」。
小川はこの時のことを振り返り、「個々のビジネスプランというよりも、片野社長という経営者に投資しているつもりでしたので。社長が東北でやろうとしていることを考えた場合、この程度で敗退してもらっては困るし、また、そんな簡単に白旗を揚げないだろうとは思ってました」。
片野の人格とビジョンに寄せるこのような信頼と期待は、先のいわて産業振興センターの小山にも共通するところだ。
窮地を救ったのは、高い技術力と精度を誇る部品だった。プリンパクトには「不思議歯車」という特殊な部品が使われていた。「不思議歯車」とはまた不思議な名称だが、奇をてらっているわけではない。機械工学で「不思議遊星歯車機構」として知られる装置である。
“遊星”という語が入っているのは、真ん中に太陽のような歯車があり、その周りを遊星(惑星)のように回る歯車が嵌めこまれているからだ。つまり「不思議遊星歯車機構」とは歯数の異なる複数の歯車を太陽と惑星のようにかみ合わせて配置し、パーツを動かすしくみのことである。
では、この装置の狙いはなにかというと、大きくいえば減速である。
減速の目的はパワーアップだ。100分の1に減速すれば、力は100倍になる(動力伝達効率が100%の場合)。つまり小さな力で大きな仕事をさせることができ、小型化には非常に有効だ。モーターが小型化すると、出力は落ちる。そこを不思議歯車でリカバリーするのである。
この歯車が大量生産を受注した。かつては、部品を作ることだけでは飽き足らず、完成品に執着していた片野だったが、窮地を救ってくれたのは、部品だったというのは興味深い。