「スモール・ジャイアンツ」大賞に輝いたのは、カッティングエッジ賞を受賞した京都のミツフジである。3年前に廃業寸前だった同社の劇的な起死回生のドラマを紹介しよう。
気まずい瞬間はインタビュー開始早々に訪れた。場所は日比谷国際ビル1階。1日平均3万人が来訪する超高層ビルの1階に、2017年、IoTウェアラブル企業「ミツフジ」はショールームをオープンさせている。
奥の商談室で社長の三寺歩に、父親である前社長について聞くと、一瞬、彼は不意を衝かれた表情になった。そして、言葉を探しながら、「本で読んで、その通りだなと思ったことがあります」と、こう話し始めた。
「売れるロックバンドはある段階でお客さん側に立ち、誰もが聴きたくなる曲をつくります。売れないロックバンドは『なぜ俺たちの音楽がわからないんだ』と言います。私の父は1枚目のアルバムは売れたのですが、その後は売れなくなったロックバンドのように、『なぜ俺の技術がわからないんだ』という状況に陥ったのだと思います」
長男である三寺が立命館大学を卒業したのは01年。「父親とは学生時代、ずっと対立していました。遅かれ早かれ、父の会社は死ぬと思っていたので、継ぐなんて一度も思ったことがありません」と言う。
彼は松下電器(現パナソニック)に入り、その後、外資系のシスコシステムズ、SAPジャパンで営業職のキャリアを重ねた。彼が京都府城陽市にある実家の「三ツ冨士繊維工業」に戻ったのは大学卒業から13年後の14年だ。「そのときの写真、見ますか」と、彼は苦笑いを浮かべた。
3年前の会社の写真。日比谷国際ビルとは落差の激しすぎる建物が写真に収まっていた。アスファルトの割れ目から雑草が生えた駐車場。その片隅に立つ小さなプレハブ。壊れかけた資材置き場にしか見えず、外にある簡易トイレは、用を足そうにもドアが錆びて閉まらないという。もともとあった工場と土地は人の手に渡り、三寺が記憶する風景はすべて剥ぎ取られていた。
「こんなところまで堕ちやがって」。プレハブの前に立ったとき、三寺はそう思ったという。「悔しくて涙が出てくるわけですよ。何やってんだって」。そして彼は質問に対して想定していなかった答えを返した。
「軽蔑していたんです、父のことを」
米NBAのバスケットチームも
この1月、東京ビッグサイトで「第4回ウェアラブルEXPO」が開催され、ミツフジも出展した。冷たい雨にもかかわらず、汗ばむほど会場内がごった返したのは、ウェアラブル市場に勢いがある証拠だろう。
リストバンド、メガネ、衣服など、ICT端末を体に装着させた「ウェアラブルデバイス」は、血圧、心拍数、歩行数、消費カロリー、睡眠の質、食事内容など日々の活動データを収集する。総務省はこうした「スポーツ・フィットネス型」について、17年に66億ドルだった世界市場が20年に113億ドルに拡大すると予測する。
「お問い合わせは毎日あるので、一日中お客様との打ち合わせでスケジュールは埋まります」と、ミツフジの営業本部長、塚原裕和は言う。営業マンが新規開拓をせずして、次々と提携の話がもちこまれる。数多あるウェアラブル企業のなかで、ミツフジほど世界から注目されている例は珍しいだろう。
シャツ、ヘルメット、バンドなどで生体情報を取得できるトータルサービス「hamon」は、アメリカNBAのバスケットボールチームや、時価総額で世界トップクラスの企業群から次々と話が舞い込む。国内でも、医療や介護、ゼネコン、自治体、大学、プロボクサーの村田諒太といったアスリートまで、提携の領域は群を抜いて広がる一方だ。
3年前までプレハブだった無名の会社が、なぜ世界から注目される企業に変身できたのだろうか。
三寺の祖父、三寺冨士二が京都で西陣織の帯を製造する工場を始めたのは1956年である。65年に「織り」からレースや服飾雑品の「編み」に転換したが、日本の繊維産業は説明するまでもなく、70年代以降、斜陽化に直面している。生産拠点の海外シフトが進むと、中小零細の繊維業が集まる町は、衰退と高齢化に向かうのである。
「バブルが崩壊して、もうダメだというときに、父は会社や仕事のあり方を変えたいと、92年、アメリカのペンシルベニア州スクラントンという町に行きます。機能性繊維という新しい展開を求めたのです」