始球式には地元レッドソックスが誇りとする歴史的な強打者、テッド・ウィリアムズの姿があった。テッドは1941年に4割6厘の打率をたたき出し、以降、4割超えの打者が現れていないことから「最後の4割打者」と呼ばれている。
テッドは、がんの子どもたちの良き支援者でもあった。始球式には少年時代に白血病だった65歳の紳士(かつての「ジミー少年」)も登場し、「みなさんの支えがあったからこそ、3人の孫にも恵まれ幸せな人生を歩むことができました」と謝辞を述べたのだ。そして2人は、そのままダナ・ファーバー癌研究所で「がん」と闘う子どもたちを励ましに向かった。そこは、私の1回目の留学先だ。
ダナ・ファーバー癌研究所を訪れたテッド・ウィリアムズ(Photo by Getty Images)
白血病の子どもたちを救ったヒーローの物語は、1947年にさかのぼる。抗生剤の開発で感染症が治りうる時代となり、次は抗がん剤の開発を目指して人々が躍起になっていたころの話だ。ボストン小児病院病理部のシドニー・ファーバー先生は、「白血病は葉酸欠乏性貧血と逆の病態である」と仮定し、葉酸拮抗薬であるアミノプテリンを抗がん剤として開発した。12歳のジミー少年は白血病の診断のもと、アミノプテリンの投与を受けて元気を取り戻した。抗がん剤を投与されて治った世界初のケースだ。
ラジオの人気キャスターがジミーの病室を訪れた。
「君は何が好き? 野球? だったら、ボストン・レッドソックスは好きでしょう? 誰が好きなの?」と、問いかけた。そうして、ジミーが好きな野球選手たちがジミーの病室を見舞ったのである。さらに、病室からラジオを通して、“私を野球に連れてって”を歌う選手たちとジミーの歌声が全米に流れた。
キャスターによる寄付の呼びかけに応じ、放送が終わるや否や、小児病院には募金を持った人々が殺到した。ジミー・ファンドの始まりである。これが発展してダナ・ファーバー癌研究所ができたのだ。
それから約半世紀。かつてのジミー少年は、50年以上前に病床で受け取ったチームのTシャツを宝物として大切に持ち続けた。そしてフェンウェイ球場の始球式で、彼は大観衆の前で披露したのだ。
抗がん剤の臨床応用から70年が経つ。当時、不治の病だった小児急性リンパ性白血病は、いまや9割が治る時代となった。ファーバー先生はこう語っている。
「治癒しないと思われる病気も、最良の臨床医と研究者がチームをつくって一緒に働きさえすれば治りうる」
私は「ヒーローとは不可能を可能にする存在である」と感じた。
うらしま・みつよし◎1962年、安城市生まれ。東京慈恵会医大卒。小児科医として骨髄移植を中心とした小児がん医療に献身。その後、ハーバード大学公衆衛生大学院にて予防医学を学び、実践中。