その出発点は1964年に奥高尾に開業した「うかい鳥山」だった。文化事業、都心への出店、株式上場などを経て、常に成長を続けるうかいは、新たに六本木ヒルズに2つの新店舗をオープンする。国内外の人々に賞賛されるうかいの原点を大工原正伸社長に聞いた。
高度成長期前夜、その場所には、日本初の都市型ホテルがあった。その館に銀座文化人が集い夢を語り、舞台芸術の街の地霊は、その熱意の土壌に美と粋の大樹を育んだ。「銀座うかい亭」は、この地に新たに建てられたビル1階に、2003年に誕生する。その後の名声は枚挙にいとまがない。昨年は来日したトランプ大統領が夕食に訪れたことも話題になった。なぜ「うかい亭」は、国籍や年代を問わず広く愛されるのか。
「フランス料理の研鑽を積み30代を迎えた私は、この先、何を目指すのかを思い迷っていました」。うかい代表取締役社長、大工原正伸は30年前の自分を振り返る。
「横浜店開業初期に、創業者の鵜飼貞男と出会い『うかい亭』の圧倒的な存在感に心を動かされました。シェフが司る鉄板は究極のシェフズテーブルで、それは料理人としての最高の舞台だった。その前で、自分が培ってきた料理観に新たな扉が開く期待に、心躍らせたことを思い出します」
大工原は1988年に料理長としてうかいに入社、総料理長などを10年務め、既存のカテゴリーに属さない「うかい料理」と称される独自の料理の基礎を築く。その後の10年は開発事業部長として店舗開発に当たり、現在に至る。
「入社してすぐアワビの料理をつくってみなさいと言われ、自分が学んだフランス料理の技法を駆使して一皿をつくりあげました。そこで鵜飼に言われたのは『いまから三重に行こう』でした。クルマが伊勢志摩に着いたのは翌朝で、潮の香りのなか、海を望み『君はこの海を見ても、あの料理をつくるかね』と……。先代はそういう方でした」
その想いを明快に表した言葉が、かつて「うかい亭」を訪れた昭和の名優の墨跡「美味方丈」だと大工原は言う。方丈の空間に、食材を育んだ風土、つくり手の愛情に想いを巡らせ、それを慈しむ料理人がいて、一皿に凝縮された壮大な物語を深く味わう。
「美味方丈の言葉を見るとき、私の記憶は伊勢志摩の朝の海辺へとさかのぼる。空間と料理と心。三者が織りなす究極の食空間をどう表現し、どうお客さまに喜んでいただくか。その追究がうかいの原点なのです」
銀座うかい亭のエントランス「風と光の門」。ゲートを手がけたのは、独特の建築美で高名な建築家の池原義郎だ。93年頃、総料理長だった大工原は、創業者から「君は30㎝の皿に盛り付けができる。1万㎡の皿を君に託すから、美術館を料理してみなさい」と言われ、「箱根ガラスの森美術館」の開発責任者となる。その後は、前述の通り、新店舗開発に携わった。
「料理を考えるときも、素材を組み合わせ、盛り付けてタイミングを計り、お客さまがどう驚き、どう喜んでいただけるかを想像する。料理も美術館も、手段と方法が違うだけで、喜んでいただく目的は同じ。創業者はそれを理解していたから、私に美術館を任せたのです。鵜飼はお客さまに喜んでいただくことに最善を尽くし、一切の妥協がなかった。料理から店づくりの20年は、創業者から理念を学ぶ濃密な時間でもありました」