東日本大震災 死傷者ゼロだった「あまちゃん」の町の奇跡

洋野町八木南港の津波被害の名残(2014年当時)


同じ頃、宇部義夫さんが八木南地区の高台の神社に駆け上がり、八木南港を見下ろすと、津波の第一波によって既に港内の水産加工会社などは屋根まで破壊されていた。その目前でさらに第2波、第3波の津波が次々と押し寄せ、JR八戸線・陸中八木駅構内に停車中だった除雪用ラッセル車が波になぎ倒された。宇部さんは「とてつもない破壊力。ただごとではないと思った」と当時を振り返った。

小さな積み重ねを続けた自主防災組織

にもかかわらず、死者・行方不明者が発生しなかったのは、町の取り組みに加え、住民の自主防災活動をなくして語れない。

災害対策基本法第5条には、地域住民が任意で結成する「自主防災組織」について言及しているが、組織結成などの法的拘束力はなく、国や地方公共団体は育成・充実の援助をすると定めている。

洋野町で初の自主防災組織が同町中野地区に発足したのは、東日本大震災のわずか3年前の2008年5月だった。その立役者は震災当時町内の久慈消防署種市分署長(現洋野町防災アドバイザー)だった庭野和義さんだ。

「岩手県北部はもともと自主防災組織の組織率が低かった。各地区にも働きかけたが、まずは自分が住んでいる中野地区からと思い、有志に声をかけた」

当時、このことを報じた地元紙・岩手日報には庭野さんの次のようなコメントが掲載されている。

「過去に津波で大きな被害を受けた八木地区にも自主防災組織の輪を広げたい」

このコメントに呼応し、08年8月に八木北地区、09年7月に八木南地区でも自主防災組織が結成された。いずれも地区町内会の下部組織として機能し、全世帯が加入した。

とはいえ、特別な活動を行っていたわけではない。年1回の地区総会、敬老会の際に「津波では絶対に死なない。地震が起きたらすぐに高いところへ避難する」と繰り返し伝え、住民総出で高台への避難路の草むしりや除雪、年1回の町主催の防災訓練時の炊き出し訓練、一人暮らしの高齢者への常日頃の声がけなど、ごくごくありきたりのことを続けた。


洋野町八木南地区にある高台への緊急避難路

一大改革が行われた防災対策

一方で、町としての取り組みも変革をした。町では毎年、昭和三陸津波の発生日時の3月3日早朝に防災訓練を行ってきた。しかし、寒さの残る薄暗い早朝ということもあり、参加者は年々減少し続けていた。

このため2005年に行った住民アンケートの結果を踏まえ、毎年8~9月の日曜日日中に訓練日時を変更した。その結果、2005年に416人だった訓練参加者は、震災前年の2010年には町内の津波発生時避難対象者の約2倍の717人にまで増加した。
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文=村上和巳

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