「一見無意味に思えること」を続けることの意味

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雲水(禅の修行中の僧)には日常の動きにも細かい決まりごとがある。就寝から排尿、排便まで細かく取り決められていて、これらの規則は一見、修行生活の目的である「悟り」とは無関係に思える。「赴粥飯法(ふしゅくはんほう)」は食べ方の決まりだ。箸の上げ下げから食べる音まで厳しく決められている。現代でも雲水はこれらの決まりを大切に守り生活している。

日常生活には一見無意味だが長く続いている決まりがたくさんある。人はなぜ無意味そうな決まりごとを守ろうとするのだろうか。世代を超えて守り続けるのは何らかの意味があるはずだ。

違う観点から考えてみよう。医学の世界では「身体の動作と精神」の関係の深さが注目されている。特に遺伝子を使った方法など新しい測定方法で以前と比べ「心」をとらえる技術が飛躍的に進歩してきた。どうやら「身体の動き」のパターンを変えることで精神が変わるようなのだ。身体を動かすことで身体の内部が変化し最終的には心に影響を与える。身体を精一杯使って修行する修験道で山の行に行くと精神疾患が軽快することがあると以前、先達から聞いたことがある。これも身体の動きが少なからず心に影響を与える例だろう。

ストレスは脳の中心にある扁桃体という部分で感じる。そこからのストレス刺激は延髄の神経細胞を介して自律神経に伝わり呼吸が荒くなったり、心拍数が増えたりする。だから、ストレスが続くと呼吸が荒くなりパニックになる。リラックスできず不眠になったり食欲が出なくなるのだ。

最近の論文では、運動するとストレスによる症状が発現しにくくなることがわかってきた。運動することにより延髄の神経細胞の突起の数が減り自律神経への過剰な刺激が送られることを避けるシステムがあるのだという。

では、運動ではない「赴粥飯法」という「所作」は、心に影響を与えるのだろうか。これは科学では解明されていないのでわかっていないのだが、この「わからない」という点が重要だと思うことがあった。私の患者である大手企業の社長がこう言っていた。

「自分にはまだ知らないことが残っているという、謙虚な気持ちをもっていないと出世できない。世の中には、どうしてそんな仕組みができたのか、仕組みのなかにいる人たちでさえわからない場合がたくさんある。そのなかで礼儀を含め、まずは未知のものに従ってみる心の謙虚さがなければ自分自身も未知の領域には達しないのではないか」

一つひとつの動きの理由を考えず、一見無意味にも思われる礼儀やしきたりに向き合うことで思わぬ心の広がりを体得できるかもしれないのだ。

自分自身のなかにある未知なるもの。それは謙虚さの先にある。この未知なるものへの到達を、人は「悟り」と呼ぶ。宗教に限ったことではなく、ビジネスにも当てはまるのではないか。そう教えられた気がした。


桜井竜生◎1965年、奈良市生まれ。国立佐賀医科大学を卒業。聖マリアンナ医科大学の内科講師のほか、世界各地で診療。近著に『病気にならない生き方・考え方』(PHP文庫)。

編集=フォーブス ジャパン編集部

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