『サピエンス全史』続編から見える“日本の勝ち筋”


より分かりやすい例として、近年アメリカを中心に流行している「マインドフルネス」が挙げられます。「イマ・ココ」における内面的・外面的な経験に注意を向けることそのものが瞑想であるべきにもかかわらず、心理的に獲得したい成果や効果を求める時点でそれはマインドフルネスではありません。

内面的な自然と一体化して無目的な平穏を求めようとすることを目的とする……この大いなる矛盾は、死と幸福の概念でパラダイム設定を試みるハラリの議論にも通底しているのです。この矛盾に向かい合いながら西洋個人の更新を目指す論は力技を感じますし、ハラリにしか書けないのかもしれません。

そういった意味では、難病を治癒することも寿命を最大化することも、それがテクノロジーによって我々全体が手にできる状態として一般化したあかつきには「個人のエンパワー」という機軸では語られなくなります。「整形手術をするのは当たり前」や「車を持っているのは当たり前」といった話は、社会的インフラの議論にたどり着きどこまでいっても東洋の自然を出ません。

確実に歩みを進める歴史のなかで、過去に克服したであろう障害を僕たちは容易に忘却します。「みんなは」とか「普通は」などといった言い回しを会話のなかで日常的に使う僕たちは、一人称のコンテクストよりも全体の議論に流れがちです。例えば、メガネができるまで近視は重大な身体欠損でしたが、今はそんなことを気にする人はいません。それが、個人のオーグメンテーションか? という問いを立てることは稀なのではないでしょうか。

言い換えれば、私たち東洋人は一人称と三人称を常に行き来します。東洋人が「芸術」を理解できないのは、一人称からなる、その個人の到達点と個人が歴史や文化との間に育むコンテクストを理解しにくいことの裏返しかもしれません。その観点をこの本を通じて得ることで、我々の持っているコンテクストと西洋コンテクストの間にあるギャップへの理解が進むかもしれません。(後編は3月4日公開)

文=落合陽一 構成=長谷川リョー

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