【落合陽一 徹底解説・前編】「サピエンス全史」続編から見える日本の勝ち筋

サピエンス全史の続編である『HomoDeus』


他にも、西洋的価値観に基づいて論拠を固めようとする姿勢は、下記のような記述にもみてとれます。

「芸術性や政治的コミットメント、宗教心の多くの部分は死への怖れに起因する」(A large part of our artistic creativity, our political commitment and our religious piety is fuelled by the fear of death.)

普遍的な語り口で述べられるこの箇所に関しても、コンテクストとして東洋を生きる僕は違和感を覚えます。一神教に依拠しない東洋人にとって、宗教やコミットメントは「死への怖れ」ではなく「然」に由来するからです。もちろん、日本人が戦後培ってきた拝金的現世主義は死への怖れから生じる面も大きいと感じますが、それはおそらく社会制度を個人化する過程で同様に生まれた考え方なのかもしれないと再認識することもできました。

しかしながら本来、「老子」のなかで理想として説かれる「無為自然」が分かりやすい代表的な思想の例といえるでしょう。東洋的思想に立脚したとき、コミットメントが死や契約に結びつくことへの論述がない限り、全体批評性を持った論が成り立たない西洋は堅苦しく思えてなりません。

前提となる論点として抑えておきたいのは、「Homo Deus」が“三人称になりたがっている超一人称の本”であるということです。その葛藤がいろいろなところに出てくることが非常に興味深い。

「手に入れないと、気が済まない」という病

「幸福と不死の追求により、人類は自らを神へと変えようとしている」(In seeking bliss and immortality humans are in fact trying to upgrade themselves into gods.

「私たちの生涯で不死が獲得されずとも、死を乗り越える戦争は次世代の主題となるだろう」(even if we don’t achieve immortality in our lifetime, the war against death is still likely to be the flagship project of the coming century.)

本著を通じ、ハラリは一貫して「幸福」と「不死」の獲得を主題に据え続けます。このアジェンダ・セッティングにも、本著が“超一人称”な本であることが見え隠れしているといえます。つまり西洋的個人主義からみた超一人称が神を目指すという方向性を与えているわけです。

「(不死と並んで)21世紀の人類にとって最重要になるプロジェクトは幸福を確保することであり、それは人間のリエンジニアリングを喚起する」(it seems that the second great project of the twenty-first century - to ensure global happiness - will invoke re-engineering Homo sapiens so that it can enjoy everlasting pleasure.

僕たち東洋人はそもそも「幸福」といった考え方をしておらず、元来「自然」な状態を求めていました。「happy(幸福)」よりも「comfortable(快適)」です。快適であるためには、心技体が一致している必要があります。価値観として幸福と言われる状態にいる人でもこの社会や自分自身に対して不快な状態にあると感じている人がいるのはそのためでしょう。
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文=落合陽一 構成=長谷川リョー

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