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『サピエンス全史』続編から見える“日本の勝ち筋”


「Homo Deus」の随所随所にその欲求が見え隠れするように、こういったコンピューターテクノロジーによったエコシステムやビオトープを考えたときに、西洋的思想の持つ厳格性やキリスト教的一神教価値観は自然と調和をモチーフにする東洋思想よりも齟齬が出やすい。でも、それを認めてテクノロジーにまつわる思想をアップデートして進んで行くことは、文化的な意味でも、政治的な意味でも、民間の意識的な意味でも難しい。

そもそも宗教的な意味でも、文化的な意味でも、西洋的価値観が強烈に埋め込まれた社会に彼らは生まれ育っていますし、例えばそのコミュニティの中で東洋的な、一は全、全は一のような考え方など、仏教的哲学観や老荘的哲学観などの態度を示すことで、「ヒッピーだね」とか「オリエンタリズムだね」とカテゴライズとレッテルによって唾棄されることを嫌うからです。

僕ら日本人はそうした恐れを抱くことなく、堂々と東洋的価値観と向き合うことができます。むしろ東洋的価値観への自覚を取り戻すことが、我々のような研究者、起業家、ビジネスパーソン、そして学生にとって今後大きなアドバンテージになっていくでしょう。それは、テクノロジー親和性が高い考え方だからです。

では、なぜこのように考えることができるのか。「Homo Deus」を批評的にかつ、ポジティブに読み解きながら、語っていきたいと思います。

超一人称と三人称の違い

「Homo Deus」のなかには、ハラリの主張を明瞭に表すこんな主張があります。

「21世紀のテクノロジーは外部アルゴリズムが人間性をハックし、自分以上に(アルゴリズムが)自分を遥かに知るようになることを可能にするだろう。そうなれば、個人主義への信仰は崩れ、権力は個体的な人間からネットワーク化されたアルゴリズムへと移行する」(twenty-first century technology may enable external algorithms to ‘hack humanity’ and know me far better than I know myself. Once this happens the belief in individualism will collapse and authority will shift from individual humans to networked algorithms.)

確かに、個人が計算機ネットワークによって接続された集団や統計的学習プロセスをもたらすような機械学習のアルゴリズムに超克されれば、我々の文化がもつ(例えば松尾芭蕉の俳句で詠われるような)「三人称視点の自然」しか残存しないはず。いわば個別の人格は「テクノロジーと人間の掛け算で定義される新しい自然」に溶け出していく。僕はこうした未来像を「デジタルネイチャー」と呼称しています。

ハラリ自身、本の随所で三人称を志向しつつも、結論部では一人称「ホモ・デウス」に固執しています。どうしても、西洋観の一本筋を通そうとする葛藤が見え隠れするのです。これを見ていると歯がゆくもあり、逆に言うとよくぞまとめたとも言いたくもなる。その過程を読み込むことは違ったコンテクストで生きる我々には非常に面白く感じるはずです。

文=落合陽一 構成=長谷川リョー

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