今回は、M=Morita Akio(盛田昭夫)。そして彼の著者のタイトルでもある「Made in Japan」について(以下、出井伸之氏談)。
昨年の秋、私は家族と一緒に、名古屋にある盛田昭夫さん(ソニー創業者のひとり)のお墓参りをした。今から約19年前の1999年10月に亡くなられた。当時、私は世界的規模に成長し続けるソニーの社長だった。それ以降、「今、この時代に盛田さんがいたら」と考えることがしばしばある。
意志のある発言を認め合うカルチャー
エレクトロニクスの井深大さん、物理の盛田昭夫さん、地質学者の岩間和夫さん。この3人が、終戦直後の新しいパラダイムを迎えた日本で、コンシューマー向けの半導体産業を創出し基盤をつくった。
盛田さんは名古屋でも有名な老舗酒造の生まれだが、後を継がず、井深さんとベンチャーを創った。その背景には実は広島の原爆投下があった。アメリカの軍事技術のレベルを知り愕然とした盛田さんは「日本は平和技術から産業を創出したい」という思いから起業に参画した。そして3人は半導体に目をつけムーアの法則のより指数関数的に技術も会社も飛躍的に成長した。
「ヨーロッパの市場開拓を行いたいので入社後1年で休職し現地に行き学びたい」
私は盛田さんと井深さんにこんな交渉を行い、ソニーの前身である東京通信工業に入社した。私も半導体産業の伸びを十分に確信していた。しかしソニーの成長のパワーは想像を絶していた。平和産業のプロダクト商品で、アメリカをはじめ世界各国に進出しグローバリゼーションを実行する、その真っ只中に私はいた。
ソニーがこんなにも巨大に成長するのであれば、ソニーに負けないくらい私自身も成長する、と当時決意したことをよく覚えている。それは私がソニーフランスを設立した20代後半の頃だ。
強く信じて戦い続けた、その功績
その頃の日本の強さとソニーの持つ先見性は実に凄かった。そこには盛田さんという大きな存在があった。日本という国の地位をグローバルレベルに引き上げるべく、日本のために戦った人だ。
単身で渡米しトランジスタラジオを売り込みに行った時、ソニーというブランドが使えない取引は全て断った。またビデオレコーダーが普及し始めた時には、ハリウッド映画スタジオとソニーが著作権争いをした。そのおかげで現在、私的に録画した映像を楽しむことができている。
他にも、カリフォルニア州のユニタリータックス、カラーテレビのダンピング訴訟、欧州のPAL方式など、いくつも戦いながら認められ今の常識をつくり、世界の中での日本というポジションを築きあげていった。
そんな盛田さんが1986年に約5年の歳月をかけ完成させた著書「Made in Japan」は、日本のものづくりのパワーをアメリカ人に知ってもらうために英語で書かれ、その後30カ国で翻訳された。ヨーロッパでの事業の記述には私も少し登場する。「Made in Japan」は、盛田さんの経験からグローバリゼーションと多角化について書かれた歴史的な本だ。経営における譲歩や調和など今でも十分に学ぶものがある。