歪んだテック社会の救世主、異色の経歴を持つ日本人女性

ネストCTO 松岡陽子。シリコンバレー・パロアルトのネスト本社にて。


結果的にテニス選手をケガで断念したが、では、10代後半でなぜロボット工学に転身したのか。「当初は個人的な欲求からです。ずっとテニスをしてきたから、一緒にテニスをするロボットをつくりたかった。大学で電気工学を専攻したのもそのためで す。手と足があってコートを走り、時には私に本気で挑み、時には私に勝たせてくれるロボットです」 

つまり、「私」と駆け引きができるだけでなく、「私」の思いを察してくれるロボット。彼女は「テニスバディ」と名付けて、大学では脚のロボットを研究した。 

さらにロボットの頭脳や手と腕を研究するため、95年、MITの大学院に進んだ。指導教授は、後に掃除ロボット「ルンバ」を発明するロドニー・ブルックス教授。今でこそロボットの世界の第一人者だが、当時は学者の間で「昆虫型ロボットをつくる変わり者」として異端児扱いをされていた。 

しかし、MITでテニスバディから意外な方向へと進んでいく。「繊細な動きや力の加減は機械学習やAIを用いる必要があると思い、AIを研究したのですが、満足がいかなかったんです」。そこでこう考えた。「やっぱり人間の脳を学ぶ必要がある。そう思って、ニューロサイエン(神経科学)に進んだのです」

ここで彼女の目の前に、これまでとはまったく違う光景が広がった。脳の研究とは、脳に病気をもった人々を研究することでもある。脳卒中の後遺症で体が麻痺している人、パーキンソン病の人......。「私が大学で学んできたことで、この人たちを助けられるのではないか」、彼女はそう思ったと言う。 

世界には10億人もの人が体や精神に障害を抱えている。正しいリハビリがなされれば、「なりたい自分」が可能になる。そこで彼女は、ロボット工学と神経科学という異なる分野を合体させた。「ニューロロボティクス」という未知の分野への挑戦を始めたのだ。

ロボットと人間の「陰と陽」

01年、カーネギーメロン大学で教職に就き、リハビリロボットの研究を始めると、ある日、見知らぬ人からメールが届いた。「子どもが交通事故に遭いました。何かつくれますか?」。メールの数は次々と増えていった。すると、学生たちが「一緒に人助けをしたい」と言い出し、その数がどんどん増えていった。 

彼女はリハビリの研究をしていくうちに、マスターできたことがあったという。

「脳卒中で手の動きが不自由になった人をサポートするロボットがあります。ロボットの力でモノを一緒に掴むのですが、ロボットがサポートしすぎると、リハビリにはなりません。ロボットの力が不十分でもそうです。私が学んだのは、ロボットと人間が相互に影響しあうコンビネーションです。人間の学習と、機械の学習がひとつの円のようにつながり、“なりたい自分”を試していく。この絶妙なバランスを私たちはマスターできたのです」 

ひとつの円。彼女はそれを「陰と陽」と表現するときがある。森羅万象は相反する陰と陽のバランスで成り立っており、「調和」と呼ばれるものだが、それは本来、限りなく不可能なものだ。人間が「調和」を求め続けるのは、常に「もどかしさ」と共にあるからだろう。

ヨーキー自身、もどかしさを身をもって知っているはずだ。体を壊してテニスを諦め、AIでは物足りずに人間の脳を研究する。前出のマット・ロジャースは学生時代、彼女のこんな姿を記憶している。

「彼女はとても不器用で、授業中、何か考え事をして脳みそをフル回転させているから、ボードに書くペンを手や腕に落とす。いつもシャツをインクで汚していました。赤ん坊を片手で抱いて授業をすることもあったし、ネストに入ったときも産まれたばかりの赤ちゃんを片手に抱いて、エンジニアたちのためにボードに絵を描いていた。信じられないくらいエネルギッシュだけど、それが彼女のやり方なんだ」

もどかしさと格闘してきた彼女が、人間と機械の絶妙なバランスを見出せたのは、まさに天分だったのではないだろうか。
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文=藤吉雅春 写真=クリスティ・ヘム・クロック ヘアメイク=ケイティ・ミュラー

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