そんな話をしているうちに、「薪は足りてるか?」なんて話になったりする。「誰々さんから分けてもらったけど、足りなくなってきました」と話すと、「じゃああげるからちょっと手伝って」と呼ばれる。翌日手伝いに行くと、「この林の栗の木は全部持っていっていいぞ」となったりする。
薪は購入すれば、軽トラック1台分で1万円くらいする。軽トラックの最大積載量は350kgだ。主な暖房が薪ストーブの我が家では、ひと冬を越すのに、ざっと5トンくらいの薪を使うので、お金に換算すればとんでもない額の物をいただいていることになる。
栗の木は、やや着火しにくく、火持ちもナラやクヌギのようにパワフルではない。木の中の水を通す導管が太いため、火にくべるとその導管が破裂して、火力が弱いうちはパチパチとはぜる。そのため、あまり人気がないようだ。でも薪ストーブの火が安定した頃に投入するぶんには、まったく問題ない。時折はぜる音も、むしろ、いい。
ときおりニセアカシアをいただりもするが、こちらは堅木で火持ちがいい。暖める力が大きいため熾(おき=赤くおこった炭火)をつくりやすく、使い勝手がいい。
もちろん、木を倒して、玉切りして……と労力はかかる。その手間を惜しむようなら、買うしかない。でも私たちは、できるだけお金を使わずにあるもので間に合わせたいし、そんな手間を楽しんでいるから、ただただ、ありがたいばかりである。
さらには、「ご主人の工場はどこにあるの?」と聞かれ、「どこどこにあるけど、もっと近いところで探しているんですよ」と話せば、「じゃあ、この土地にある小屋を使ったらどう?」という話に展開したりする。銭湯はいつも、そんなありがたいおせっかい話が溢れているのだ。
ご近所さんで顔見知りといっても、「こんにちは」の挨拶だけでは、コミュニケーションは生まれない。「こんにちは」の次の会話をできるかどうか。そして会話の先に、信頼をつくることができるかどうか。一緒にお風呂に浸かっていると、それがとてもしやすい。まさに、裸の付き合いができる。ああ、ありがたや、ありがたや。
銭湯という場所を通じて、お金を介すことなく、薪から土地探しまで、いろいろなものが惜しみなく回ってくる。
お金を介さないものを、経済というのかどうかはわからない。けれど、私たちの価値観では、経済そのもの。田舎では確かに、銭湯という場所で、信頼という経済が回っていると思うのだ。
【連載】里山に住む「ミニマリスト」のDIY的暮らし方
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