ポータークラシック社長 吉田玲雄
大西:私は紳士担当が長かったので、「吉田カバン」とはずっとお付き合いさせていただいていましたし、「ポータークラシック」についても知ってはいました。
初めてお会いした頃、伊勢丹の社長として、日本の職人たちのモノづくりの技術をもっともっと国内外に知らしめ、ファンが増えれば販路も広がっていくなと考えていました。そこで企業テーマで、「ジャパンセンスィズ」というものを打ち出していたのです。それにまさしくぴったりのブランドが、「ポータークラシック」だった。そのタイミングであの店に出かけて行ったので、ゾクゾクっときたのです。
克幸:昔の人の言葉で「駕籠に乗る人、担ぐ人、そのまた草鞋をつくる人」というのがあります。ぼくたちは草鞋ですよ。道路を歩くのじゃなくて、道路をつくらなくちゃいけない。それが登山道だろうが、高速道路だろうが、けもの道だろうが。その役割をもくもくと果たし、皆さんに歩いていただけるなら、これほど嬉しいことはない。
でも、独立してからは本当におカネがなくて。玲雄はそれをオクビにも出しませんでした。「オヤジ、もうカネがないからつくれないよ」とは言いませんでしたからね。きつかったと思いますよ。ほんとうによく我慢してくれました。
大西:順風満帆だった「吉田カバン」から独立して、「ポータークラシック」を創業された理由は何だったのですか。
克幸:オヤジ(「吉田カバン」の創業者である吉田吉蔵氏)が病気になって、長期の入院が必要になったとき、1年間ほど入院先の病院に寝泊まりして、いろいろな話を聞きました。ぼくは5人兄弟の末っ子だったのですが、オヤジが職人さんのところを回るときにしょっちゅう一緒に連れて行かれていた。でも、つまらなくてね。話を聞いても全然わからなかった。それが、病院でずいぶん面白い話を聞くことができた。これはとても勉強になりました。
大西:なるほど。ここでもモノづくりの継承があったわけですね。
克幸:当時は自分の企画したカバンがイケイケで、ぼくも本当にクソ生意気だった。でも、これじゃいけないと思うようになりました。何がファッションだ、流行だと。もっと根本的なモノづくりを大切にしなきゃいけないなと考えるようになりましたね。それでオヤジが死んで、その数年後におふくろが死んだとき、ゼロからやり直そうと考えたのです。
モノづくりを世界レベルでしてくれる人や、素晴らしい素材、材料をつくってくれる人がいて、そのうえでアフターケアや修理、カスタムなどもちゃんとできるのが一流の会社だと考えて、それを自分でつくり上げようと。
大西:そのとき、息子さんの玲雄さんも一緒に。
克幸:息子が「オレも参加するよ、一緒にやろう」って言ってくれて。ありがたかった。それで、銀座にお店を出したら、いま働いてくれている子たちが集まってくれた。ほら、あそこで帽子を被ってミシンをかけているのは、モノづくりの天才です。1年に2回ぐらいしか口を利かないのですけど。
真ん中の女の子はうちに入社したときから10年間、ずっと下を向きっぱなしですが、細かい作業がうまい子で。そっちの長洲小力みたいな子は、自転車やトラックに乗って職人さんのところに行って、話をしたり、励ましたり、ポジティブなのです。そういう子たちが7~8人集まってくれて、コツコツと始めた。ぼくも皆と勉強しながらね。ショップやアトリエも自分たちでつくろうと、ペンキを塗りながら。そうやって10年になりました。
若い頃はヒッピーのような旅をしていた
大西:吉田さん(克幸氏)は、若い頃から、海外に出かけられていたと聞きましたが。こだわりのモノづくりはその頃から培われたのですか。
克幸:当時、東京の商売人の息子たちは関西で修業をさせるのが一般的だったのですが、ぼくは箸にも棒にもかからない、どうしようもないガキだったらしく、死んだ兄貴(「吉田カバン」2代目社長の吉田滋氏)からドイツへ行って来いと送り出されたのです。1ドル360円、1ポンド850円の頃です。両親からも共稼ぎで稼いだなけなしのおカネを渡されて。
大西:関西の代わりに、ヨーロッパだったのですね。
克幸:ありがたいですね。オヤジとおふくろは、兄貴も1960年代にヨーロッパへ行かせているのです。羽田の飛行場で万歳をして送り出していた時代です。兄貴はイタリアで鞄屋や工場を回って、帰りに大量に商品を注文してきた。それが届いて、ぼくの寝床に積んであった。
両親は毎晩「これで会社がつぶれてしまう」と真剣に話をしていたらしいのですが、その革を触ってみたら、ものすごく柔らかいタッチで、「世の中にこんなに素晴らしい革があるんだ」というぐらい衝撃的な柔らかさでしたね。それがグッチでした。
大西:ということは、海外に出かける前から、海外の文化に触れていたわけですね。ドイツでは「修業」はされたのですか。
克幸:行ったのがシュッツガルト近くの何もない田舎で、そのときは日本のほうがいいなと思ったのです。少し外国に住んでみると、山本周五郎の小説がいかに素晴らしいかがわかるわけですよ。藤沢周平とか、松本清張とか、日本ってすごい情緒に溢れていて、いい国だなと。小説を読みながら号泣したりして、自分にも日本人の血が入っているのだなと思いましたね。
大西:それはちょっと意外なエピソードですね。そのあと、すぐにロンドンに移られた。
克幸:ぼくは、とにかく若くて生意気で、ヒッピーやホーボーのようなアナーキーな旅をしていた。ドイツはつまらないので、ロンドンに渡った。でも、貧乏生活ですね。銀座のアイビーで育ったから、着るものは嫌いじゃない。おカネはないけど、フリーマーケットだとか、安く売っているところに行って買ってきたものに、器用な友だちがサイズを直してくれたりしてくれた。こういう世界も面白いなと、そのときに思った。モノづくりも、ちょっとこういう風にやったら面白んじゃないかなと。
大西:そこで、モノづくりに目覚めた。
克幸:そのとき、ちょっと真面目にオヤジのことが頭に浮かんだ。それで、「おれって鞄屋だよな」と思って、いろいろ考え始めた。イギリスで、手縫いでキャディバッグをつくっていた工房などを訪れたりしたね。ロン毛のヒッピーみたいな風貌の人間が、「見せてくれますか」と行くのだけれど、意外とみんな感じがよかった。