明治時代の白米対麦飯の脚気(かっけ)論争を思い出す。当時、脚気は国民病で学生や兵隊の3人に1人がかかっていた。倦怠感に始まり、手足の運動感覚麻痺、運動をすると激しく動悸がして、次第に寝たきりの状態となる。死亡率は3%程度で、多くの死者がでていた。
明治15年、376人の兵員を乗せた戦艦龍驤(りゅうじょう)は全行程272日の遠洋航海に出ていた。ある日、「病者多し航海できぬ金送れ」という悲痛な電報が届く。169名の脚気患者が発生し、そのうち25名が死亡したというのだ。
ところが、ホノルルで1カ月間停泊し、それまでの食糧を全部捨て、新たに積み込んだ肉,野菜を乗組員に与えたところ、脚気患者は全員元気を取り戻したのである。しかも白米中心の水兵ばかりが脚気にかかり、おかずの多い士官は病気にかかっていない。海軍軍医総監だった高木兼寛(後に慈恵医大を創始)は、水兵の白米中心の食事が脚気の原因であると考えた。
そこで、同じく遠洋航海にでる戦艦筑波の兵食を、麦飯とおかずの多いロカボ食に替えて世界初の大規模疫学介入研究を実施した。筑波からの電報は、「病者一人もなし安心あれ」。以降、海軍食はロカボメニューに切り替えられ、脚気は制圧された。
一方、陸軍軍医総監であった森鴎外(後の文豪)は脚気菌を発見したと発表。疫学調査は一切行わず、動物実験でコッホ四原則によりこれを証明したというのだ。脚気の原因が脚気菌であれば、栄養の偏りで脚気になるわけがないと主張し、陸軍は白米中心の兵食を堅持した。
明治27年、日清戦争で海軍の脚気患者が0人であったのに対して、陸軍では4064人が脚気で死亡した。日露戦争では海軍の脚気患者が105人発生したのに対し、陸軍では25万人。うち2万7800人が死亡している。ロシアは「日本軍は突撃の際に(脚気のため)フラつき酒に酔っているようだった」と記述している。戦死者の中にも多くの脚気患者が含まれていたに違いない。戦後、陸軍は「古今東西ノ戦役中殆ト類例ヲ見サル」という痛烈な批判を受けた(時事新報)。
ビタミンB1が発見され、これが欠乏すると脚気になると判明したのは大正15年のことだ。B1は肉や魚、麦など白米以外のほとんどの食品に含まれる。兼寛は疫学調査から脚気の詳しい原因がわかる前に、脚気対策に成功していたのだ。
ロカボのよさが疫学研究で明らかにされたのは昨年。バランスのよい食事で、病気の予防はできるはずだ。“We Are What We Eat”─。
うらしま・みつよし◎1962年、安城市生まれ。東京慈恵会医大卒。小児科医として骨髄移植を中心とした小児がん医療に献身。その後、ハーバード大学公衆衛生大学院にて予防医学を学び、実践中。