ビジネス

2018.01.20

日本の野菜流通の評価基準には「味」がない?

「この世にパラダイスをつくること、関わる人の人生をパラダイスにすること」がモットー。


どの業界にも表には出てこない裏の事情ってものがある。僕はおいしくない食べ物は、その存在自体が冒涜だと思っているが、実はこれでそのブリーダーを非難するのは早計なのである。

世の中、生産性と経済性優先で大方出来上がっている以上、一営利企業のブリーダーが、一営利企業の農家に向け生産性と経済性を考慮した品種をつくるのは至極当たり前の話だし、結果として作られたものは一営利企業である市場や、農協の規格を経由し、一営利企業に属するバイヤーの意思決定を経て小売店の店頭に並び、一営利企業で働く僕たちが一営利企業的思想でもって購入し食べているわけだ。

評価項目としての「味」

農家は通常、市場や農協を経由して販売している(2016年の統計では85%)。しかし実は、その出来上がった農産物の評価項目に、「味」はない。果物には糖度センサーを通して差別化を図り販売している農協もある。しかし、野菜は皆無だ。

だから意欲的な農家がおいしい品種を選び、苦労して育てて「おいしいの、つくったんです!」と市場にほうれん草を持っていっても、苦笑いされながら「は? で?」と言われるのがオチだ。

市場の評価基準は、色、形、量。その三拍子が揃ったほうれん草であればいいので、味は関係ないのだ。当然、買い取り価格には反映されない。それが現実。

だから、農家は、生産性と経済性に見合った品種をつくる。スーパーや八百屋には、そういう野菜が流れていく。つまり消費者としての僕たちは、おいしい品種がこの世に存在するのにもかかわらず、意志を持って探さない限り、美味しさを追求した野菜を食べることができない構造になっている。

美味しいものはあるのに、それを食べられない世界……せっかく人として生まれてきたのに、それを知らないで死んでいく人生なんて、寂し過ぎる。

そんな現実を知った僕は、この現実をどうにか変えたいと思った。おいしいものを、体にいいものを、環境にいいものを、当たり前に選んで食べられる世界を作りたいと思った。そしてパラダイスを妄想した。

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次回は、「なぜ自然栽培なのか」についてお話したいと思います。

文=唐澤 秀

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