20世紀フォックスを作った男 W・フォックスの成功と転落

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映画製作参入、きっかけはエジソンとの法廷闘争

しかし最初のブームから約6年後、競争により市場が飽和していると懸念する声が上がり始めた。競争の激化により、良質な作品の不足と、座席数の過多が発生。フォックスも事業存続に不安を抱くようになった。そして彼は直後、さらに大きな脅威となる競合相手と対峙(たいじ)することになる。

当時、市場で主流の映写機の一つを発明したエジソンは、最大の競合企業だったバイオグラフ(Biograph)とともにモーション・ピクチャー・パテンツ・カンパニー(MPPC)を設立。同社は映画の認可を独占した。映画業界はすぐにMPPCに主導権を握られるようになり、同社への不満が募っていった。

フォックスは競争を抑圧したとしてMPPCを提訴。最終的にMPPCは違法な独占と判定され、解体が命じられた。この勝利に続き、フォックスは1914年1月、自身の映画製作・配給会社を設立。これが現在の20世紀フォックスとなった。映画業界参入から10年後のことだった。同社はその後、映画界の中心的存在として成功を収めた。

成功からの転落

フォックスは1929年初め、事業拡大のためメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)の株購入を決めた。しかし、この展開を快く思わなかったMGMの役員2人が、米司法省のコネを利用し、フォックスを独占禁止法違反に問うべきだと訴えた。

フォックスは同年中ごろには交通事故に遭い、身体的な打撃も受けた。さらに同年後半には株式市場が暴落し、彼の財産は壊滅的被害を受けた。預金だけでなく、MGMとの合併の希望も消え失せ、1930年には敵対的買収により自身の会社の経営権を失った。

フォックスはそれでも希望を捨てず、映画界での地位を取り戻すべく2つの裁判を起こすが、どちらも失敗。仕事がすべてだったフォックスは、会社を失ってから自分自身も見失った。

クレフトは、フォックスのキャリアが悲劇に終わったからといって、彼の人生の成功を過小評価すべきでないと主張。「(フォックスは)映画が現在の形になるに当たり、誰よりも大きな貢献をした」と指摘している。

彼は映画を愛し、映画が世界に良い影響をもたらすと心から信じていたし、彼の築いた映画事業はその信念に基づいていた。しかし人生の後半ではその信念を失い、映画界を支配する願望にさいなまれた。自分自身の物語の筋を見失ったことが、破滅の原因となったのだ。

編集=遠藤宗生

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