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2015.02.13 10:00

敗戦後、日本のものづくりの礎を築いた「米国流マネジメント講座」



 46年、日本に駐留する連合国軍総司令部(GHQ)最高司令官であったダグラス・マッカーサーは、日本の津々浦々にまでGHQの意向を伝えられるよう、日本でラジオの大量生産を開始することが緊切の課題だと考えていた。(中略)サラソンの下に「大至急、マッカーサー元帥司令部にて勤務されたし」という電報が届けられたのは、同46年。今ではすっかり黄ばんでしまったその電報を手に、サラソンは「冗談だと思った」と語る。その後、1人の大佐から怒りの電話が入り、電報が本物であったと知った彼は、早々に東京へ向かった。サラソン29歳の時である。

 (中略)来日したサラソンは、日本人はエレクトロニクスに関して豊富な知識を持つが、近代的マネジメントや生産技術の知識についてはゼロに等しいと感じていた。(中略)

 1948年、ウエスタン・エレクトロニック(編集部注・1881年~1995年米国最大手の電話会社AT&Tの製造部門として存在した)のエンジニアでありGHQの民間通信局(CCS)に所属するチャールズ・プロッツマンがサラソンの相棒となった。2人は、基礎から近代的マネジメントを教えない限り、日本人が高品質な製品を生み出すことは難しいとの見解で一致し、49年、日本の企業経営者を対象としたマネジメント講座の開設を提案した。皮肉なことに、当時サラソンとプロッツマンがこの講座で教えた経営思想のほとんどは現在、米国で「日本的」と考えられているものなのだ。この講座が持つ意味をすぐに理解し、重要性を認識した日本人は、以後25年にわたり、この2人の教えをトップ・マネジメントの道へ歩む人たちに向けたセミナーで繰り返し説いている。サラソンとプロッツマンの教えを受けた生徒の中には、松下電器の松下正治、三菱電機の加藤威夫、富士通の尾見半左右、住友電工の井上文左衛門、そして、後にソニーと名を改める東京通信工業創業者の井深大と盛田昭夫など、その後の日本のエレクトロニクス業界を背負って立つ錚々たる顔ぶれが含まれていた。そして、サラソンが教えた思想は、彼らを通じて、日本の産業界全体に広がっていった。

 松下電器の松下正治はこの講座のことをはっきりと記憶している。「当時の日本の製造業者にとって、きわめて有益なものでした。講義に使われた教科書の1ページ目に『企業の存立意義』というタイトルが書かれ、企業の経営哲学、社会的使命がわかりやすく解説されていました。これは講座の参加者全員に強烈な印象を残しました。ここで教えられた理論、特に企業の存立意義が企業の社会的使命にあるという考え方は、現在でも十分に通用するのではないでしょうか」

 GHQの経済科学局(ESS)は、この講座の設置に反対した。「必要以上の成果を上げる可能性がある、というのが彼らの言い分でした」とサラソンは振り返る。ESSのスタッフとCCSのエンジニアの双方は、マッカーサーに対して20分のプレゼンテーションの時間が与えられた。ESSは日本の競争力が高まり、いずれ米国の脅威になると警告し、サラソンは戦争に敗れ、飢餓状態にある国に自立する方法を教えるほうが最終的に米国の利益にかなうと強く主張した。双方が意見を述べた後、マッカーサーはサラソンに向かって「君の思うようにやりたまえ」と告げ、その部屋を出ていったという。
(以下略、)

ロバート・チャップマン・ウッド

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