しかし、名監督の誉れ高い西本監督が、勝負師としてのすべてを賭けて下した決断。その決断を、すぐ傍で見ていたコーチは、他の誰よりも大きな学びを得たであろう。このコーチは、西本監督の正念場での姿から、一人のリーダーとして、言葉を超えた何か、かけがえのない何かを掴んだであろう。
そして、そのことを期待したがゆえに、西本監督は、そのコーチに、「この正念場、しっかり目を開いて、よう見ておけ!」と呟いたのであろう。それは、師が弟子に対して、最も大切な何かを、魂を込めて伝えようとした瞬間でもあった。
このときのコーチが、その後、近鉄監督としてパ・リーグを制し、オリックス監督として日本一を制した仰木彬氏だったとも言われるが、その真偽を筆者は知らない。
しかし、いずれにしても、このエピソードから学ぶべきは、「正念場の体験は、チームのリーダーとメンバーにとって、最高の学びの機会となる」という真実である。
されば、経営者やリーダーの立場にある人間は、自らに問うべきであろう。
「自分の率いる組織は、これまで、いかなる正念場を体験してきたか。そこで何を掴んだか」
「強い組織」や「学ぶ組織」ということが、アカデミックな理論や知識で語られる時代だからこそ、我々は、こうした極限の体験と、そこでこそ掴める叡智の大切さを、決して忘れてはならない。
では、いかにすれば、経営者やリーダーは、自ら率いる組織に、そうした正念場を体験させ、メンバーに深い学びをさせることができるのか。
しかし、ただ正念場を体験させれば、メンバーが学ぶわけではない。
なぜ、その経営者やリーダーが、強い組織、学ぶ組織を作ろうと思うのか。それが、業績を上げるため、競争に勝利するためという思いであるかぎり、メンバーが深く学ぶことはない。縁あって巡り会った部下や社員の成長を祈る思い。その思いの深さが、深い学びの場を生み出す。
西本監督が傍らのコーチに呟いた言葉。その奥には、部下への愛情があった。
田坂広志の連載「深き思索、静かな気づき」
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