それは、3勝3敗で迎えた第7戦。勝利したチームが日本一の栄冠に輝く試合、1点差を追う近鉄が、9回裏ノーアウト満塁と広島のリリーフエース江夏豊投手を攻め立て、一打逆転サヨナラ優勝という場面。近鉄が圧倒的に有利な状況であった。
近鉄はヒッティングか、スクイズか、全国の野球ファンがテレビの前で固唾を飲んで見守っていた瞬間、近鉄を率いる西本幸雄監督の決断が、すべてを決するという場面であった。
このとき、西本監督は、傍にいたコーチに、こう呟いた。
「おい、この正念場、しっかり目を開いて、よう見ておけ!」
しかし、この直後、西本監督がヒッティングを命じた佐々木選手は、惜しいファウルの後、三振に打ち取られた。そして、次に敢行したスクイズは、ピッチャー江夏の天才的な直観によって見抜かれ、失敗に終わった。近鉄は、西本監督の渾身の決断にもかかわらず、十中八九手にしていた日本一を失ったのである。
これが球史に残る「江夏の21球」のエピソードであるが、この試合終了の瞬間、西本監督は、黙して傍にいたコーチに呟いた。
「ああ、わしは、この悔しさ、棺桶に入っても忘れんぞ!」
たしかに、西本監督の全身全霊を込めた決断にもかかわらず、スクイズは失敗に終わった。そして、どれほど言葉を重ねても、敗北は、敗北である。しかし、試合に敗れはしたが、この世紀の大勝負の体験を通じて、近鉄のコーチと選手たちは、極めて大きな学びの機会を得た。
なぜなら、「敗北した軍隊は、良く学ぶ」という言葉どおり、それまで弱小球団であった近鉄が、この後、パ・リーグで何年にもわたり優勝を争うチームになっていったからである。
そして、決定的な場面で空振りの三振に終わった佐々木選手をはじめ、多くの選手が、この痛恨の敗北から大切なことを学び、その後、名選手として活躍していった。